海外救援へ派遣されていた職員の貴重なインタビューです。実際に何が起きているのか、我々は何をしなければならないのか。実際に赴き、わかることがありました。
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伊藤明子国際医療救援部副部長兼看護副部長は赤十字国際委員会(ICRC)が実施するアフガニスタン・ミルワイズ病院への支援事業のため、2009年9月からアフガニスタン・イスラム共和国へ派遣されていました。
これは、ヘッドナースとして、また今年の2月からは病院プロジェクトマネージャーとして活動し、紛争犠牲者の救護活動や現地スタッフへの教育、支援活動に従事した伊藤副部長の活動記です。
アフガニスタンでは、昨年8月の大統領選挙後に情勢は悪化し、反政府武装集団に対する国際的な軍事戦略の発表により、さらに治安は悪化、紛争は激化の一途をたどっています。カンダハール県はアフガニスタンの南部に位置し、カルザイ大統領の出身地であり、また反政府武装集団の発祥・根拠地と言われています。
そのアフガニスタン南部5県における唯一の公的な基幹病院が、私の活動したミルワイズ病院です。対象地域の人口は約400万人で、病床数365 床の病院です。赤十字国際委員会(以下ICRC)は1996年から継続してこの病院を支援しています。この長年にわたる支援の成果は、病院の環境、運営そして職員教育の水準に感じることができます。
ICRCのカンダハール事務所には、世界20数カ国から派遣された人々が活動しています。この中で、ミルワイズ病院を支援する国際チームは16カ国の要員で構成されていました。
この病院には、病院長をはじめ看護部長、事務部長、各病棟と外来に看護師長と看護師、看護業務補助者兼警備としてのクリーナーがいます。職員総数は約300名。医師(研修医含む)約60名、助産師約20名、看護師約70名(病棟・手術室・外来)、その中で女性看護師は13名だけです。
カンダハールはアフガニスタンの中でも保守的な考え、習慣が多く残っている地域で、特に女性に対する制限が多くあり、女性患者さんの病院への来院や、日々の看護の実践に支障をきたすことが多々あります。ですから私たち外国人女性スタッフも服装、行動には細心の注意を払い、常にスカーフを被って活動しています。
病院にはテロによる爆発や地雷、銃によるけがをした兵士、警察官、そして紛争に巻き込まれた地域住民が運ばれてきます。反政府武装集団兵士も運び込まれ、時にはこれを捕まえようとする人々が病院にくることもありました。しかし私たちは、常に中立・公平な立場で、例え政府軍兵士・反政府武装集団兵士であっても、病院の中では「一人の患者さん」として治療、看護を行っています。紛争やテロを止めることはできませんが、傷ついた人の命、尊厳を守ることに最善を尽くしてきました。
紛争地域ですので私たちの行動にも制限があり、車で数分の病院と住居の間は常に2台の車両で移動しました。私たちはどこにいても常に無線機と携帯電話を持ち歩かなければなりません。病院の前には幹線道路が走っていて軍隊の車両は日常的に往来しており、何らかの故障で軍の車両が立ち往生すると、私たちの緊張は高まります。
この支援事業の最高責任者として、病院内にいても常に危機管理に神経を研ぎ澄まし、状況に応じて要員に危機管理行動指示を出し、夜間テロ等により多数の負傷者が病院に搬送されると、ICRCチームの病院への派遣に備えて情報を収集し、出動の判断をします。日頃からミルワイズ病院長と協力して、多数の紛争負傷者の受け入れ体制を整えるのも私の役割です。
カンダハールでは今年に入って毎日のようにテロ、爆破事件、銃撃戦等により政府軍兵士・反政府武装兵士、国際軍兵士、そして一般市民の負傷や死亡が報告されていました。連続して月に1度は大きな爆破事件が起こり、私たちの住居の窓ガラスが爆風で多数破損したこともありました。爆破事件の翌日は、出勤してくるICRC現地スタッフの表情は暗く、病院は負傷した多数の入院患者で溢れ、看護師たちは不眠不休の看護の疲労の中で、いつかは自分あるいは自分の家族が目の前の患者のようになるのではないかという不安を押し殺すかのように、言葉数が少なくなります。
ICRCの派遣は7回目になりますが、今回は紛争地域に身を置くことの立場と役割を常に意識し、その最前線で活動していることを実感する毎日の中で過ごした8カ月でした。
アフガニスタンの人々の挨拶は、私たち日本人の挨拶に比べるととても長いものです。その背景には、生命の危険に曝された社会に住み、出会った時にはお互いが無事であったことの喜びを分かち合い、互いの家族・友人の無事を確認し合い、そしてまた必ず会えるという確証のない別れの意味が込められていることを、私は実感しました。
過去の派遣で何度となく別れの言葉を、現地の方々と交わしてきました。けれど今回は「また会いましょう」という言葉ではなく、「必ず無事でいてください。必ず生きていてくださいね。」という言葉が、無意識に私の口からこぼれていました。この言葉が「彼らを守ってくれますように」という祈りであるように、私は一人ひとりと握手を交わしました。生きていて欲しい。無事でいてほしい。
こうして名古屋に帰った今も、毎日彼らのことを想い、祈っています。そして、アフガニスタンに一日も早く平和な日々が訪れることを。
スマトラ島沖地震・津波救援活動 第2班 派遣
2005年1月20日~2005年2月17日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ | ||||
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チームリーダー | 医師 | 看護師 | 技術要員 | 技術要員 |
石川 清 | 佐藤 公治 | 石川 佳世子 | 浅井 由樹夫 | 礫石 英治 |
第2班は、ERUクリニックの運営に重点をおいて活動するとともに、ムラボ地区にある病院への支援、避難民キャンプでの巡回診療、母子保健、予防接種を行いました。また、孤立したシムルー島での巡回診療を開始しました。
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ERUクリニックには、次々と被災者が運ばれた。 |
日本赤十字社は、平成16年12月26日に発生したスマトラ沖地震・津波被災者救援を終了すると同時に、中長期的視点で復興支援事業を行なっています。
私は平成17年8月上旬から、震源地に近いインドネシアのシムルー島で、復興支援事業の保健要員として6ヶ月間派遣され活動してきました。まずは活動する拠点となる事務所を開設することから始めました。そして次に、地震以前に島にはどのような医療施設や機関があったのか、またどのような疾病があったのか、シムルー島での保健・医療水準の調査を行いました。復興支援事業には、他国赤十字社やNGOそして被災地の地域役員との話し合いはとても重要です。事業内容の決定のための調査や話し合いにはかなりの時間を要し、事業が軌道にのるまでには数ヶ月かかりました。
最終的に、本事業では、❶ 地震で被害を受けた地域保健施設16ヶ所の修復、❷ シムルー県立病院の再建(病棟、厨房、洗濯室)と薬品庫と病院職員寮の建設等を行うことを決定しました。
この派遣中に一番考えさせられたことは、「復興支援」ということでした。現地の人々の思いを知ること、被災前の日常の生活が戻ることは頭で考えるほど単純なことではなかったからです。
何度も話をしたり、現場を見たり、自分の想像力も駆使して「知る」ということを体験しました。
そんな私を支えてくれたのは、現場で知り合ったスタッフや人々、日本と各国の赤十字の関係者。そして、当院の皆さまと家族でした。
今も復興の様子が気になる日々ですが、一日も早い現地の人々の生活の再建を祈っています。
派遣期間:2015年6月~7月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
6月4日から堀部技師の後を引き継ぎました。すでに発災後5週間経過しており、ERU活動開始時には30件前後/日であったX線検査数は、10件ほどに減少し、災害由来ではない一般外傷や、内科疾患の患者さんの占める割合が増えてきたところでした。技師を派遣するには費用対効果の面で疑問の生まれる業務量ですが、現地には通常のX線業務のほかに、私が担うべき役割がありました。
活動拠点であるPHCC(診療所)には、従来からX線撮影機器が配備され、現地担当者もいましたが、専門知識を持たないために診断に適したX線写真が得られていなかったようです。このような背景から、PHCCよりX線担当者のトレーニングを依頼されました。
そこで限られた滞在期間でも効果を残せるよう、各種マニュアルを作成し、それらを元に担当者を教育すると共に、PHCCのX線装置等を整備し、7月にはERUのX線システムからPHCC本来のものへ完全移行しました。ハード・ソフト両面で生まれ変わったメラムチのX線検査室は、その後現地医師により写真の質が向上したとの評価を受けました。
ネパールにはメラムチと同レベルのPHCCが多く存在しており、今後も継続的な支援が望まれるところです。
ERUにX線システムが投入されるのは、2010年のハイチ地震に続き2回目で、まだ十分な経験が蓄積されていません。そこでERUにおけるX線システムの運用に関する課題抽出が求められました。電源供給、画像データ管理、ワークフロー等について、今回様々なデータを採集することができました。今後のERU運用への活用が期待されます。
派遣期間:2013年3月~2013年4月
派遣先:フィリピン共和国ミンダナオ島ダバオ
2012年12月フィリピンを襲った台風24号(Bopha)は南部のミンダナオ島に甚大な被害をもたらしました。現地では医療救援ニーズが高まり、赤十字国際委員会(ICRC)は日本赤十字社(日赤)に対し、基礎保健緊急救援(RD; Rapid Deployment)チームの出動要請を行いました。これを受けて、日赤国際部では要員・資機材を現地に輸送、ICRC傘下での活動をすることとなりました。
今回の活動は日赤が主導権を取る各国共同派遣の形で行われ、チームリーダーには当院の伊藤看護副部長が任命されました。ミンダナオ島のバガンガ州に診療所を設営し、活動が始まりました。私は活動撤収に係る技術担当として最終2週間の派遣でした。撤収といっても日本に持って帰る物は少なく大半は現地の赤十字社などにハンドオーバーする物で、その為、大型テント、発電機などの取り扱い説明及びメンテナンスの方法を現地スタッフに指導しました。
今回は過去のERU*派遣と異なり一人で派遣されました。現地では色々判らない事が多かったのですが、チームリーダーが同じ病院の伊藤看護副部長でしたので、心強く又、随分お世話になりました。フィリピンは熱帯性の気候で着任して1~2日で日焼けが酷くなり薬を塗っていました。仕事柄、外にいる時間が長いので大変でした。今回、技術担当として資機材の取り扱い、メンテナンスを伝えて、これ等が現地で末長く使っていただけると思うと、こんなに嬉しい事はありません。
看護師 関塚美穂
中央アフリカ東部のタンザニア連合共和国の北西部にあるキゴマ州には、2009年1月現在なお、1990年代の政情不安・部族紛争・食糧危機により発生したコンゴ民主共和国人難民、ブルンジ共和国人難民が生活する難民キャンプが3つ残っています。日本赤十字社は、これら3つの難民キャンプ内でタンザニア赤十字社が行っている診療活動・疾病予防・母子保健活動に必要な資機材や医薬品などの支援を行っています。私の仕事は、タンザニア赤十字社の医療保健活動に参加し、サービスの向上について一緒に考えること、日本赤十字社からの支援金が適切に使用されているか確認することです。
この支援事業の主役は、タンザニア赤十字社のボランティアの人たちです。彼らは、隣国からの難民の人々を助けるために自分の家族と離れ、タンザニアの中でも一番発展が遅れているキゴマの過疎地で、月々のわずかな手当てで不自由な生活をしながらも活動を続けています。彼らの存在なくしては実際のニーズに即した形あるサービスを提供することはできません。とはいえ、活動するためには資金が必要です。私は現地で、遠く離れた日本から「難民の人々を助けたい」と寄せていただく寄付金の大切さと、現地で実際の支援活動をするボランティアの人々の大切さの両方を感じています。
文化・生活習慣の違いや言葉の壁等に戸惑い、悩むことは度々ありますが、現地の人々の笑顔に支えられ、「ポレポレ(ゆっくりと)」を合言葉に、今日も彼らと力を合わせて、一人でも多くの難民の疾病からの回復、健康維持のために頑張っています。
派遣期間:2015年7月~8月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日、ネパールでM7.8の地震が発生し、日本赤十字社(日赤)は最大の被災地であるシンデュルパルチョーク郡のメラムチ村で診療支援を行いました。私は第三班の技術要員として派遣され、電気や生活水、通信といったライフラインの確保と資機材の管理を第二班から引き継ぎました。また第三班では撤収、寄贈後の資機材をネパール赤十字社のスタッフが使いこなせるようにトレーニングを行いました。
ほぼ全ての資機材を展開し、生活や診療支援が行われました。新しい資機材も多く不慣れであったことや、活動期間中は雨期であったため、いろいろな問題に直面しました。そんな時、いつも地元スタッフのサポートがあり、ともに知恵を出し合って問題解決に取り組みました。地元ならではの解決方法はとても勉強になりました。知らない資機材であっても、みんなで話し合い、行動し、問題を解決する姿はとてもたくましく感じました。
活動地から去る車中で、地元スタッフが「毎日、プレッシャーを感じていた。無事に終えることができて本当に良かった。」といって目に涙を浮かべていた姿がとても印象的でした。いつも笑顔で話しかけてくれた裏側で、そのような重圧を感じていたことは全く知りませんでした。過去最大規模のERU活動が無事に行われたのは、彼のおかげであったといっても過言ではありません。日赤の活動はいろいろな人々によって支えられてきたと再認識した一場面でした。
派遣期間:2014年3月~2015年3月
派遣先:ウガンダ共和国アチョリ地域
ウガンダ北部の村で行われている母子保健事業は、地元の赤十字ボランティアや保健所のみなさんと協力し、赤ちゃんとお母さんの安全なお産を支援して5年目になります。支援活動のひとつとして、「ママバッグ*」と呼んでいる、清潔なお産ができるように必要な物品をセットしたものを、対象となる妊婦さんが保健所に来てお産する際に配布しています。このママバッグ配布は、お産の際、対応が困難なトラブルが発生したときにできるだけ迅速な対処ができるよう、自宅ではなく医療施設となる保健所でのお産を導くことにも役立っています。
(*日赤「産休サンキュープロジェクト」にも支えられています。http://donation.yahoo.co.jp/detail/1301028/を参照いただけたら幸いです。)
しかし、安全なお産は、赤ちゃんを産む場所を保健所に選んだだけでは成立しません。妊娠中、そして妊娠前から、赤ちゃんとお母さんの健康に対する正しい知識と理解が必要で、それを実施することが重要です。母親となる女性だけでなく、家族や地域のみなさんの理解と協力があってこそ成り立つものです。
事業地のあたりは今も、子供は家計を助ける財産で、妻は夫に従順が良いという考えが見受けられます。そして農繁期で得た収入を飲み代で使いきってしまうような男性もいます。このような環境のなか、どのようにして知識の普及と実践行動を支援しているのでしょうか。
事業地区には80人のボランティアがいます。妊婦さんの個別家庭訪問だけでなく、保健所を訪れた人に対して、産前健診の意義や妊娠中の危険な兆候、母乳育児や栄養、そして、夫の付き添いの重要性を伝えています。特に、男性を周産期に巻き込むことで、母体保護活動の推進をねらっています。
ある保健所を訪問したとき、前回のお産までは健診も受けず自宅で出産をしていた女性が、今回4人目のときには夫と一緒に保健所に出向いて出産し、今後の家族計画についても相談ができているとの話を本人から聞きました。ボランティアの地道な積み重ねの成果を感じた場面のひとつとなりました。
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日本赤十字社とフィリピン赤十字社との二国間事業であるフィリピン保健医療支援事業は、2005年からキリノ州において、そして2010年からオーロラ州において継続して行われています。両事業地域には全国の赤十字病院から看護職を派遣し、当院からも事業開始時から看護職を派遣してきました。新しい事業地域であるオーロラ州では、2010年の開始当初から当院の看護師が保健要員として活動を継続しています。オーロラ州都から最も遠いディラサグ郡では、地域保健ボランティアの育成や、保健医療施設の建設、給水システムやトイレの整備を行い、公衆衛生環境の改善を支援しています。地域住民自身による健康管理能力とフィリピン赤十字支部の組織基盤を強化することで、日本赤十字社の支援が終わった後も、住民自身の手で健康を守る活動を継続できるように活動しています。
オーロラ派遣要員 清水 宏子
フィリピンで活動を開始し1ヶ月が経ちました。こちらでは5月から11月までが雨期で、豪雨になることもしばしばあります。年間を通して暑いフィリピンですが、1日の中での温度差が大きく、朝方に肌寒い日もありますが日中は日傘が欠かせません。
普段はこのオーロラ州支部で、これから行うプロジェクトの計画を立てたり、書類を作成したりしています。支部長のシャーウィン、事業コーディネーターのエレン、事業地担当のニコ、ドライバーのロドニー、支部スタッフのエラ、ダイアン、リタと一緒に活動しています。
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支部の周りは田んぼで、水牛が草を食べている のどかな風景が広がっています。 |
ガラスのない窓が多く、エアコンなしで自然の風を感じながら仕事しています。 | トイレや水道の水が出ないため、近くのガソリンスタンドからタンクに水を汲んできて、トイレの流し水や食器洗いに使っています。 |
支部の外では、ボーイスカウトの集会の時に子どもたちに救急法を教え、また祭日には人の賑わう場所に救護所を設置し活動しています。これらの活動では、トレーニングを受けたボランティアの人達が中心となって活躍しています。仕事に就くことが難しいフィリピンでは、働き盛りの年齢の男性ボランティアも数多くいます。正職員の人数が少ないフィリピンの赤十字にとって、ボランティアの人達が大きな役割を果たしていることを実感しています。そのボランティアから救急法を教わる子どもたちは、自分たちのスカーフを三角巾代わりにして、熱心に練習していました。怪我や病気の時にすぐに病院に行ける日本とは違う環境にあって、応急手当や救命処置は自分たちでやるという意識を子どもたちもしっかり持っているように感じました。(パートⅡへつづく)
派遣期間:2013年3月~5月
派遣先:イラク共和国アルビル県
私は2014年3月1日から4月30日まで、イラク北部のクルド人自治区アルビル県にあるEmergency Management Center(以下EMC)という戦傷外科病院で戦傷外傷患者の麻酔及び術後の管理を行いました。本事業の目的は現在日本では経験する機会が少ない戦傷外科を現場で経験し、海外の医療事情を理解することにより、将来紛争地等で国際的に活躍できる人材の育成です。病院は3部屋の手術室と7床のICUを含めて入院ベッドが48床あります。医師は8名(外科医6名,麻酔科医2名)が常勤しています。
各手術室に麻酔器が配置されており、シリンジポンプも使用可能でした。しかし、日本と違い麻酔薬の種類が限られ、吸入麻酔薬はハロセンを使用していました。気道確保、呼吸・循環管理のための器具は基本的なものしか無く、普段の麻酔には十分でしたが、挿管困難などの緊急事態が起きた時には不十分と感じました。また現地では麻酔看護師がおり、麻酔看護師は麻酔科医の指示のもと麻酔薬を投与し、麻酔導入の介助や麻酔維持を行っていました。
滞在期間中,182 例(戦傷関連が114 例)の手術があり、十分に戦傷外科の治療方針及び管理を理解することができました。今回の派遣は私にとって初めての海外派遣でしたが、今までの国内の研修や出発前のブリーフィングのおかげで安全に心身ともに健康で過ごすことができました。私は国際医療救援を志して当院へ初期研修医として入職し、5年目で海外の実地研修に行かせていただき本当に感謝しています。今後はさらに麻酔科医としての臨床力を磨き、戦傷外科でのミッションに備えて頑張っていきたいです。
派遣期間:2015年6月~7月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日にネパール共和国中央部で発生した地震は、8,600人以上の犠牲者、80万人以上の方々が被災しました。基礎保健・医療型緊急救援ユニット(以下、ERU)の第2班管理要員として6月初めから1か月半ネパール共和国シンドゥルパルチョーク郡メラムチ村で活動しました。現地では、診療所の支援、巡回診療やこころのケアなど被災者へ直接治療やケアを行う活動の他に、地域の基礎保健力を高めるためのコミュニティーヘルス研修会などの活動が展開されました。
はじめての派遣である私はERUチームの一員として「できる事は何でもやろう」と現地に入りました。医師や看護師などの医療スタッフは被災者の方々に医療を提供する。そして管理要員は医療スタッフが医療を提供できる環境を整える事に力を注ぎました。現地スタッフの人事管理、前渡金(事業費)、車両運行、通信機器の管理などを中心に行いましたが、時にはコミュニティーヘルスの講習会で赤十字救急法の一部を現地の方々へ指導し、ERU撤収後の地域の基礎保健力向上に関わることが出来ました。
7月に入るとERUチームの撤収する目途を立てるなかで、我々の活動に協力してくれている現地スタッフたちにも撤収のスケジュールを伝え、残りの期間活動を共にしてくれるか面接を全員と行いました。その時一人のスタッフが「赤十字の活動には本当に感謝している。この村の人々そしてネパールの人々にとって赤十字の活動は大きな支えだ。だから、私は体が動く限りあなたたちと活動を共にする。」赤十字の活動はこのような現地スタッフの協力なくしては活動できません。ERUの活動は、赤十字のスタッフだけでなく、現地スタッフも含めてチームだと感じた瞬間でした。
派遣期間:2015年4月~6月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日ネパールでマグニチュード7.8の地震が発生、多くの死者・負傷者を出し、家屋の損壊により多くの人が家を失うなどの甚大な被害をもたらしました。 この地震被害に対応するため、日本赤十字社(日赤)では基礎保健ERU(緊急対応ユニット)を現地へ派遣しました。私は4月30日からの約6週間の期間、日赤ERU第1班で放射線技師・管理要員としてシンデュルパルチョール郡メラムチ村の診療所での地震被災者への医療支援活動を行いました。
メラムチ村はカトマンズからは車で3時間の山岳地帯に位置しており、この地域一帯の医療保健を担っているのが活動した診療所でした。今回の地震では家屋の崩壊などにより怪我をした人が多く、骨折の診断のため日本から持ち込んだX線撮影装置を使用しました。活動開始当初は近隣で活動している他国医療チームからの依頼によるレントゲンも含め、20-25件の撮影をしていました。医療へのアクセスの悪い現地では地震から2週間が経過してから初めてX線撮影をし、骨折がわかるという事例もありました。日本ではCTやMRIが日常的に撮れるという環境で仕事をしていますが、改めて基本であるX線撮影の重要性を感じました。
ERUは医療職だけでなく、管理要員、技術要員、こころのケアや地域保健担当など他職種で構成されており、ERU活動を支えるために日赤の本社職員や他国の赤十字のスタッフも活動をしています。そして言葉も文化も異なる場所では現地のスタッフが欠かせません。今回も通訳だけでなく多くの場面でネパール人のスタッフが活躍していました。活動中には資機材の不足や生活環境など困難もありましたが、全員が被災者を救いたいという目標をもって協力しあう時間からは学ぶことがとても多かったです。
派遣期間:2015年4月~6月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日、ネパールの首都カトマンズから北西80km付近を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生し、ネパール国内では壊滅的な被害を受けました。日本赤十字社(日赤)は発災当日から職員を派遣し、救援活動にあたりました。私は発災4日後に基礎保健ERU第1班の管理要員としてネパールへ派遣され、山間部のメラムチ村で約1ヶ月半活動しました。メラムチ村の診療所には、地震で怪我をした人など診療所の対応能力を超える多くの被災者が押し寄せていました。私たちERUチームはメラムチ村の診療所の支援をはじめ、周辺の村落への巡回診療やこころのケア活動などを行ないました。
私たちの活動には現地スタッフの協力が欠かせません。活動開始直後から医療支援活動に必要な通訳やボランティアなど現地スタッフを募集し、管理要員として現地スタッフのオリエンテーションやスケジュール調整などを行ないました。ERU資機材の運搬や展開にはメラムチ村の若者が協力してくれました。彼らが生き生きとたくましく活動する姿に、こちらが励まされる想いでした。
管理要員の活動は主に活動拠点や生活拠点の確立といった医療支援活動に必要なサポート業務です。到着直後から取り組むべき業務も多く、目の前の業務に追われていました。そのようななか、診療所の現地スタッフが発災当初から多くの傷病者を受け入れ、通常の診療時間を超えて24時間体制で診療を継続している現状を目の当たりにしました。「被災者を何とか救いたい」という現地スタッフの強い想いを肌で感じました。