日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院から多くの職員が医療救援に派遣されています。
派遣期間 | 活動 | 派遣先(国名・地域) | 当時役職名・氏名 |
2024年6月~10月 | ルワンダ気候変動等レジリエンス強化事業 | ルワンダ | 看護師 田中速人 |
2024年5月~8月 | ウクライナ人道危機救援活動 | ウクライナ | 理学療法士 中島久元 |
2023年 12月 | ウクライナ人道危機救援活動 | ウクライナ | 理学療法士 中島久元 |
2023年11月~12月 | JICA シエラレオネ中央こども病院サービス向上プロジェクト | シエラレオネ共和国 | 医療工学係長 兼 国際医療救援係長 新居優貴 |
2023年10月~11月 | パレスチナ赤新月社医療支援(ガザ) | エジプト | 看護副部長兼国際医療救援副部長 関塚美穂 |
2023年10月~2024年9月 | IFRC タイ・カンボジア・ラオス・ベトナム国クラスター事務所 | タイ王国 バンコク等 | 看護師 野村磨紀 |
2023年7月(約3週間) | パレスチナ赤新月社医療支援 | パレスチナ自治区 ガザ地区 | 第三麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 |
2023年4月~10月 | バングラデシュ南部避難民保険医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 作業療法士 山田陽平 |
2023年4月(約3週間) | ウクライナ人道危機支援活動 | ウクライナ リヴィウ等 | 理学療法士 中島久元 |
2023年3月~2025年3月 | IFRC 中東・北アフリカ地域事務所 | レバノン共和国 | 国際医療救援部 国際医療救援課長 菅原直子 |
2023年2月~3月 | トルコ・シリア地震救援 支援活動 | トルコ アンカラ・ガジアンテップ等 | 看護副部長兼国際医療救援副部長 関塚美穂 |
2023年1月(約3週間) | ウクライナ人道危機支援活動 | ウクライナ リヴィウ | 理学療法士 中島久元 |
2022年11月~12月 | パレスチナ赤新月社医療支援 | パレスチナ自治区 ガザ地区 | 看護副部長兼国際医療救援副部長 関塚美穂 |
2022年8月(約2週間) | ウクライナ人道危機 支援活動 | ウクライナ キーウ・リヴィウ | 第三麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 |
2022年7月(約2週間) | ウクライナ人道危機 支援活動 | ウクライナ ウジュホロド | 放射線技師 大島隆嗣 |
2022年4月~2022年9月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 村上美晴 |
2022年4月~2023年3月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 清水宏子 |
2022年1月~2022年5月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 理学療法士 中島久元 |
2021年10月~2022年4月 | IFRC 中東・北アフリカ地域事務所 | レバノン共和国 | 看護師 山田則子 |
2021年5月~2022年3月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師長 菅原直子 |
2021年1月~2022年2月 | IFRC アジア大洋州地域事務所 | リモート派遣 | 主事 青山朋恵 |
2019年12月~2020年3月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 徳永磨紀 |
2019年11月~2020年3月 | 二国間 パレスチナ赤新月社医療支援活動 | レバノン共和国 | 看護師長 菅原直子 |
2019年7月~2019年12月 | 国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC) アジア大洋州地域事務所災害対応部門研修派遣 | マレーシア | 主事 青山朋恵 |
2019年4月~2019年5月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師長 菅原直子 |
2019年4月~2020年3月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 清水宏子 |
2019年4月~2019年9月 | 二国間 パレスチナ赤新月社医療支援活動 | レバノン共和国 | 看護師 秋田英登 |
2019年1月~2019年3月 | 国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC) 中東地域紛争犠牲者支援活動 | ヨルダン・ハシミテ王国 | 看護師 村上美晴 |
2018年12月~2019年3月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 山田則子 |
2018年11月~2019年6月 | 赤十字国際委員会(ICRC) 南スーダン戦闘犠牲者救援活動 | 南スーダン共和国 ジュバ | 看護師長 関塚美穂 |
2018年11月~2019年1月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 主事 青山朋恵 |
2018年10月(約2週間) | インドネシア・スラウェシ島地震災害調査 | インドネシア | 第二麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 |
2018年9月~2018年10月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 医師 吉見祐輔 |
2018年7月~2018年8月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 助産師 佐藤友香理 |
2018年7月~2018年10月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師長 菅原直子 |
2018年7月~2018年7月 | バングラデシュ南部避難民保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 医師 久田敦史 |
2018年4月~2018年10月 | 二国間 パレスチナ赤新月社医療支援活動 | レバノン共和国 | 看護師長 関塚美穂 |
2018年4月~2018年10月 | 国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC) 中東地域紛争犠牲者支援活動 | ヨルダン・ハシミテ王国 | 看護師 桂川彩 |
2018年3月~2018年5月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第6班)/保健医療支援活動 | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 清水宏子 |
2018年3月~2018年3月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第5班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 助産師 椎名翔子 |
2018年2月~2018年4月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第5班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 臨床工学技士 新居優貴 |
2018年2月~2018年3月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第5班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師長 関塚美穂 看護師 秋田英登 看護師 徳永磨紀 |
2018年1月~2018年2月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第4班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 医師 米川佳彦 看護師 大見和敏 看護師 山田則子 放射線技師 堀部良美 |
2017年11月~2018年1月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第3班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 山田則子 看護師 桂川彩 放射線技師 堀部良美 薬剤師 佐藤尚子 |
2017年10月~2017年11月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第2班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 第二麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 |
2017年9月~2017年10月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 給水衛生・域内災害対応チーム(RDRT) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 臨床工学技士 新居優貴 |
2017年9月~2017年10月 | バングラデシュ南部避難民救援活動 基礎保健ERU(第1班) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 看護師 宮川陽子 主事 中島健太郎 |
2017年9月~2017年9月 | バングラデシュ南部避難民救援活動(先遣隊) | バングラデシュ人民共和国 コックスバザール | 第二総合内科部長兼国際医療救援副部長 横江正道 主事 中島健太郎 |
2017年4月~2018年3月 | 二国間 フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国 ヌエヴァヴィスカヤ州 | 看護師 村上美晴 |
2017年4月~2017年5月 | 赤十字国際員会(ICRC)イラク紛争犠牲者救援活動 | イラク共和国 エルビル | 医師 井上芳門 |
2016年10月~2017年3月 | 赤十字国際員会(ICRC) シリア難民救援活動 | レバノン共和国 ベイルート | 看護師長 関塚美穂 |
2016年6月~2016年12月 | 二国間 フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国 オーロラ州 | 主事 山田愛美 |
2016年6月~2016年7月 | 国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC) 中東地域紛争犠牲者支援活動 | ギリシャ共和国 北部 テッサロニキ周辺 | 医師 久田敦史 |
2016年4月~2016年5月 | 国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC) 中東地域紛争犠牲者支援活動 | ギリシャ共和国 北部 テッサロニキ周辺 | 医師 吉見祐輔 |
2015年12月~2016年2月 | 赤十字国際委員会(ICRC) 南スーダン戦闘犠牲者救援活動 | 南スーダン共和国 ジュバ、コドック、マイウット | 医師 井上芳門 |
2015年11月~2016年7月 | 赤十字国際委員会(ICRC) ミャンマー戦闘犠牲者救援活動 | ミャンマー共和国 北部 カチン州 ライザ市 | 看護師 山田則子 |
2015年8月~2016年2月 | 二国間 フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国 ヌエヴァヴィスカヤ州 | 看護師 高橋陽子 |
2015年7月~2015年8月 | ネパール地震救援活動 基礎保健 ERU(第3班) | ネパール連邦民主共和国 シンデュルパルチョール郡 メラムチ村 | 臨床工学技士 新居優貴 |
2015年7月~2015年8月 | ネパール地震救援活動 基礎保健 ERU(第3班) | ネパール連邦民主共和国 シンデュルパルチョール郡 メラムチ村 | 看護師 吉鶴由紀子 |
2015年7月~2015年7月 | ネパール地震救援活動 カナダ赤十字社病院 ERU(第4班) | ネパール連邦民主共和国 ラスワ郡ドゥンシェ村 | 看護師 吉鶴由紀子 |
2015年6月~2015年11月 | 二国間 ウガンダ北部医療支援活動 | ウガンダ共和国 アガゴ県 カロンゴ郡 | 看護師 清水宏子 |
2015年6月~2015年7月 | ネパール地震救援活動 基礎保健 ERU(第2班) | ネパール連邦民主共和国 シンデュルパルチョール郡 メラムチ村 | 放射線治療課長 駒井一洋 看護師長 長尾佳世子 経営企画課主事 中島健太郎 |
2015年4月~2015年6月 | ネパール地震救援活動 基礎保健 ERU(第1班) | ネパール連邦民主共和国 シンデュルパルチョール郡 メラムチ村 | 第二麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 放射線技師 堀部良美 主事 山田愛美 |
2015年4月~2015年5月 | ネパール地震救援活動 基礎保健 ERU(第1班) | ネパール連邦民主共和国 シンデュルパルチョール郡 メラムチ村 | 第二総合内科部長 横江正道 |
2015年5月~2015年6月 | 二国間 ウガンダ赤十字母子保健活動 | ウガンダ共和国 北部 アチョリ地域 | 看護師 山田則子 |
2015年4月~2016年3月 | 赤十字国際委員会(ICRC) ミャンマー戦闘犠牲者 救援活動 | ミャンマー共和国 北部 カチン州 ライザ市 | 国際医療救援副部長 伊藤明子 |
2014年10月~2015年3月 | 二国間 ウガンダ北部医療支援活動 | ウガンダ共和国 アガゴ県カロンゴ郡 | 看護師長 関塚美穂 |
2014年9月~2015年4月 | 二国間 フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国 ヌエヴァヴィスカヤ州 | 看護師 水野昭子 |
2014年3月~2015年3月 | 二国間 ウガンダ赤十字社母子 保健活動 | ウガンダ共和国 北部 アチョリ地域 (アルム県、キトゥグム県) |
看護師 山田則子 |
2013年12月~2014年1月 | フィリピン中部台風救援活動 (第2班) | フィリピン共和国 セブ島北部 | 第二麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 看護師 鈴木美弥子 主事 山田愛美 |
2013年12月~2014年2月 | 北イラク戦傷外科病院 支援活動 | イラク共和国アルビル県 | 看護師 朝倉裕貴 |
2013年11月~2013年12月 | フィリピン中部台風救援 活動(第1班) | フィリピン共和国 セブ島北部 | 看護師 ヤップ巳雅 |
2013年11月~2013年12月 | フィリピン中部台風救援活動 (第1班) | フィリピン共和国 セブ島北部 | 看護師長 関塚美穂 |
2013年8月~2014年2月 | ICRCアフガニスタン・ ミルワイズ地域病院支援活動 | アフガニスタン・ イスラム共和国 カンダハール | 国際医療救援副部長 伊藤明子 |
2013年3月~2013年4月 | 赤十字国際委員会(ICRC) 基礎保健RDフィリピン南部 災害救援活動 | フィリピン共和国 ダバオ | 施設整備係長 浅井由樹夫 |
2013年3月~2013年5月 | 北イラク戦傷外科病院 支援活動 | イラク共和国アルビル県 | 医師 井上芳門 |
2013年1月~2013年3月 | 北イラク戦傷外科病院 支援活動 | イラク共和国アルビル県 | 看護師 池内智春 |
2012年12月~2013年4月 | 赤十字国際委員会(ICRC) 基礎保健RDフィリピン南部 災害救援活動 | フィリピン共和国ダバオ | 国際医療救援副部長 伊藤明子 |
2012年12月~2013年1月 | 赤十字国際委員会(ICRC) 基礎保健RDフィリピン南部 災害救援活動 | フィリピン共和国ダバオ | 臨床工学技士 新居優貴 |
2012年10月~2013年4月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国オーロラ州 | 看護師 清水宏子 |
2012年4月~2012年10月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国オーロラ州 | 看護師 櫻井美弥子 |
2012年1月~2012年10月 | ハイチ大地震被災者支援活動 | ハイチ共和国レオガン | 看護師 山之内千絵 |
2011年12月~2012年5月 | 赤十字国際委員会(ICRC) パキスタン北部紛争犠牲者 救援活動 | パキスタン・イスラム共和国 ペシャワール | 看護師長 関塚美穂 |
2011年10月~2012年4月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピン共和国オーロラ州 | 看護師 山田則子 |
2011年 9月~2011年10月 | 北イラク戦傷外科病院 支援活動 | イラク共和国アルビル県 | 医師 ヤップ・ユーウェン |
2011年6月~2011年9月 | 北イラク戦傷外科病院 支援活動 | イラク共和国アルビル県 | 看護師長 関塚美穂 |
2011年4月~2011年10月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピンキリノ州 | 看護師 平田巳雅 |
2011年4月~2011年5月 | ハイチ大地震被災者支援活動 (コレラ救援)(第6班) | ハイチ共和国ポルタピマン | 主事 芳原みなみ |
2011年1月~2011年2月 | ハイチ大地震被災者支援活動 (コレラ救援)(第3班) | ハイチ共和国ポルタピマン | 新生児科副部長 村松幹司 |
2010年12月~2011年1月 | ハイチ大地震被災者支援活動 (コレラ救援)(第2班) | ハイチ共和国 ポルトープランス | 第二臨床工学課長 山田悌士 看護師 吉鶴由紀子 |
2010年11月~2010年12月 | ハイチ大地震被災者支援活動 (コレラ救援)(第1班) | ハイチ共和国 ポルトープランス | 総合内科副部長 横江正道 臨床工学技士 新居優貴 |
2010年8月~2010年9月 | パキスタン洪水災害 被災者救援活動 | パキスタン南部 | 看護師 吉鶴由紀子 |
2010年4月~2010年5月 | ハイチ大地震災害 救援活動(第4班) | ハイチ共和国レオガン | 第二麻酔・集中治療部長兼国際医療救援部長 杉本憲治 |
2010年3月~2010年4月 | ハイチ大地震災害 救援活動(第3班) | ハイチ共和国 ポルトープランスレオガン | 医師 ヤップ・ユーウェン |
2010年2月~2010年3月 | ハイチ大地震災害 救援活動(第2班) | ハイチ共和国 ポルトープランスレオガン | 助産師 小林美紀 臨床工学技士 新居優貴 |
2010年2月~2011年2月 | タンザニア赤十字社 難民支援活動 | タンザニア共和国 キゴマ | 看護師 山之内千絵 |
2010年1月~2010年2月 | ハイチ大地震災害 救援活動(第1班) | ハイチ共和国 ポルトープランスレオガン | 第二臨床工学課長 山田悌士 看護係長 関塚美穂 |
2010年1月~2010年4月 | ウガンダ母子保健医療 支援活動 | ウガンダ共和国 北部(アムル県・グル県・ パデル県・キトゥグム県) | 助産師 高井久実子 |
2009年11月~2010年2月 | インドネシア保健医療支援活動 | インドネシアポゴール | 看護師 大見和敏 |
2009年9月~2010年5月 | ICRCアフガニスタン・ ミルワイズ地域病院支援活動 | アフガニスタン・ イスラム共和国 カンダハール | 国際医療救援副部長 伊藤明子 |
2009年2月~2009年3月 | ジンバブエ・コレラ 救援活動(第3班) | ジンバブエカロイ | 救急部医師 ヤップ・ユーウェン |
2009年2月~2009年3月 | ジンバブエ・コレラ 救援活動(第2班) | ジンバブエカロイ | 臨床工学技士 新居優貴 看護師 吉鶴由紀子 購入管理課主事 山下勇吉 |
2008年12月~2009年1月 | ジンバブエ・コレラ 救援活動(第1班) | ジンバブエカロイ | 国際医療救援部長 白子順子 第二臨床工学課長 山田悌士 |
2008年11月~2009年5月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピンキリノ州 | 看護師 山之内千絵 |
2008年6月~2008年12月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピンキリノ州 | 看護師 西口佐世子 |
2008年4月~2009年4月 | タンザニア赤十字社難民 支援活動心に残るエピソード | 看護係長 関塚美穂 | 看護係長 関塚美穂 |
2008年2月~2008年5月 | ケニア大統領選挙後 暴動による犠牲者救援活動 | ケニアナイロビ | 国際医療救援課長 伊藤明子 看護師 花井美和 |
2007年11月~2008年5月 | タンザニア赤十字社 難民支援活動 | タンザニアルグフ | 助産師 高井久実子 |
2007年2月~2007年11月 | スマトラ島沖地震・ 津波復興支援活動 | インドネシアアチェ州 | 看護師 藤井知美 |
2007年1月~2007年2月 | ケニア洪水被災者救援活動 | ケニアガルセン | 臨床工学技士 新居優貴 |
2006年12月~2007年1月 | ケニア洪水被災者救援活動 | ケニアガルセン | 第二臨床工学課長 山田悌士 |
2006年5月~2006年6月 | ジャワ島中部地震被災者 救援活動(先遣隊) | インドネシアジャワ島 | 国際医療救援課長 伊藤明子 |
2006年5月~2006年6月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピンキリノイ州 | 助産師 小林美紀 |
2005年12月~2006年3月 | インドネシア保健医療 支援活動 | インドネシアボゴール | 看護係長 関塚美穂 |
2005年12月~2006年3月 | パキスタン地震被災者 救援活動(第3班) | パキスタンチナリ | 看護師長 石川佳世子 医事課主事 礫石英治 |
2005年11月~2005年12月 | パキスタン地震被災者 救援活動(第2班) | パキスタンチナリ | 国際医療救援部長 白子順子 第二臨床工学課長 山田悌士 助産師 高井久実子 |
2005年10月~2005年12月 | パキスタン地震被災者 救援活動 | パキスタンアボタバード | 救急部長 白子隆志 |
2005年10月~2005年11月 | パキスタン地震被災者 救援活動(第1班) | パキスタンチカール・チナリ | 設備整備第一係長 浅井由樹夫 |
2005年10月~2006年3月 | パキスタン地震被災者 救援活動 | パキスタンムザファラバード | 国際医療救援課長 伊藤明子 |
2005年10月~2005年10月 | パキスタン地震被災者 救援活動(先遣隊) | パキスタンバラコット | 国際医療救援部長 白子順子 |
2005年9月~2006年2月 | フィリピン保健医療支援活動 | フィリピンキリノイ州 | 看護師 藤井知美 |
2005年8月~2006年2月 | スマトラ島沖地震・ 津波復興支援活動 | インドネシアシムルー島 | 看護師長 川崎登茂子 |
2005年4月上旬~ 2005年4月下旬 | スマトラ島沖地震・津波被災者救援活動(第6班) | インドネシアニアス島 | 看護師 嘉村幸子 助産師 小林美紀 |
2005年3月上旬~ 2005年3月下旬 | スマトラ島沖地震・津波被災者救援活動(第5班) | インドネシアムラボ | 看護師 林聖子 助産師 高井久実子 臨床工学技士 新居優貴 国際医療救援部主事 東条奈美 |
2005年2月~2005年3月 | スマトラ島沖地震・津波被災者救援活動(第4班) | インドネシアムラボ | 国際医療救援部長 白子順子 看護師長 赤塚あさ子 |
2005年1月~2005年2月 | スマトラ島沖地震・津波被災者救援活動(第2班) | インドネシアムラボ | 副院長 石川清 第一整形外科部長 佐藤公治 看護師長 石川佳世子 設備整備係長 浅井由樹夫 医事課主事 礫石英治 |
ウガンダ赤十字社母子保健活動 山田則子
派遣期間:2014年3月~2015年3月
派遣先:ウガンダ共和国アチョリ地域
「安全なお産のために」
ウガンダ北部の村で行われている母子保健活動は、地元の赤十字ボランティアや保健所のみなさんと協力し、赤ちゃんとお母さんの安全なお産を支援して5年目になります。支援活動のひとつとして、「ママバッグ*」と呼んでいる、清潔なお産ができるように必要な物品をセットしたものを、対象となる妊婦さんが保健所に来てお産する際に配布しています。このママバッグ配布は、お産の際、対応が困難なトラブルが発生したときにできるだけ迅速な対処ができるよう、自宅ではなく医療施設となる保健所でのお産を導くことにも役立っています。
(*日赤「産休サンキュープロジェクト」にも支えられています。
http://donation.yahoo.co.jp/detail/1301028/を参照いただけたら幸いです。)
「ママバッグを手にするまでには…」
しかし、安全なお産は、赤ちゃんを産む場所を保健所に選んだだけでは成立
しません。妊娠中、そして妊娠前から、赤ちゃんとお母さんの健康に対する正しい知識と理解が必要で、それを実施することが重要です。母親となる女性だけでなく、家族や地域のみなさんの理解と協力があってこそ成り立つものです。
活動地のあたりは今も、子供は家計を助ける財産で、妻は夫に従順が良いという考えが見受けられます。そして農繁期で得た収入を飲み代で使いきってしまうような男性もいます。このような環境のなか、どのようにして知識の普及と実践行動を支援しているのでしょうか。
「ボランティアの地道なアプローチ」
活動地区には80人のボランティアがいます。妊婦さんの個別家庭訪問だけでなく、保健所を訪れた人に対して、産前健診の意義や妊娠中の危険な兆候、母乳育児や栄養、そして、夫の付き添いの重要性を伝えています。特に、男性を周産期に巻き込むことで、母体保護活動の推進をねらっています。
ある保健所を訪問したとき、前回のお産までは健診も受けず自宅で出産をしていた女性が、今回4人目のときには夫と一緒に保健所に出向いて出産し、今後の家族計画についても相談ができているとの話を本人から聞きました。ボランティアの地道な積み重ねの成果を感じた場面のひとつとなりました。
フィリピン中部台風( ハイエン )救援活動(ERU)山田愛美
派遣期間:2013年12月~2014年1月
派遣先:フィリピン共和国セブ島
活動概要
2013年11月8日に発生した台風30号(Haiyan)はフィリピンの広い範囲で高潮や暴風により甚大な被害をもたらしました。日本赤十字社(日赤)はセブ島北部のダンバンタヤン郡へ基礎保健ERUを派遣し、被災者の診療を実施しました。私はERU第2班の管理要員として派遣され、12月半ばから1月半ばまでの1カ月間、現地で活動しました。
私たちのチームは第1班から活動を引き継ぎ、仮設診療所での診療や村々での巡回診療を継続しながら、現地の助産師やヘルスワーカーへの保健・衛生知識の普及活動に取り組みました。チームでは、日赤の要員だけではなく、香港赤十字社の医師やオーストラリア赤十字社の臨床心理士とともに活動しました。
復興に向けて
私の派遣された時期は台風の発生から1カ月が過ぎ、現地では被害を受けた家屋や建物の修復が始まり、学校の授業が再開していました。
緊急救援期から復興期へと移行する中で、私たちのチームはERU活動終了後も現地のスタッフが住民の健康を守ることできるよう、看護技術や健康教育についての指導を実施しました。私は管理要員として、チームの医療スタッフが医療活動に専念できるようサポートするとともに、台風で屋根が破損した保健所が再開できるよう、修復に向けてのアセスメントや地元業者との打ち合わせなども行ないました。
現地のスタッフ・フィリピン赤十字社ボランティアとともに
私たちの活動には、現地の住民の理解や協力はなくてはならないものでした。活動初日には、仮設診療所のあったマヤ村の村長からの「ここまで来てくれて、私たちの村を選んでくれてありがとう」との言葉に赤十字の使命を感じ、気が引き締まりました。仮設診療所では毎日、現地の助産師やボランティアが朝の診療準備から夕方の撤収作業まで協力してくれました。また、フィリピン赤十字社のボランティアが保健・衛生知識の普及活動に積極的に携わる姿に、「現地の人々の健康を守りたい」という強い思いを感じることができました。
基礎保健RDフィリピン南部台風災害救援活動 浅井由樹夫
派遣期間:2013年3月~2013年4月
派遣先:フィリピン共和国ミンダナオ島ダバオ
活動概要
2012年12月フィリピンを襲った台風24号(Bopha)は南部のミンダナオ島に甚大な被害をもたらしました。現地では医療救援ニーズが高まり、赤十字国際委員会(ICRC)は日本赤十字社(日赤)に対し、基礎保健緊急救援(RD; Rapid Deployment)チームの出動要請を行いました。これを受けて、日赤国際部では要員・資機材を現地に輸送、ICRC傘下での活動をすることとなりました。
今回の活動は日赤が主導権を取る各国共同派遣の形で行われ、チームリーダーには当院の伊藤看護副部長が任命されました。ミンダナオ島のバガンガ州に診療所を設営し、活動が始まりました。私は活動撤収に係る技術担当として最終2週間の派遣でした。撤収といっても日本に持って帰る物は少なく大半は現地の赤十字社などにハンドオーバーする物で、その為、大型テント、発電機などの取り扱い説明及びメンテナンスの方法を現地スタッフに指導しました。
今回は過去のERU*派遣と異なり一人で派遣されました。現地では色々判らない事が多かったのですが、チームリーダーが同じ病院の伊藤看護副部長でしたので、心強く又、随分お世話になりました。フィリピンは熱帯性の気候で着任して1~2日で日焼けが酷くなり薬を塗っていました。仕事柄、外にいる時間が長いので大変でした。今回、技術担当として資機材の取り扱い、メンテナンスを伝えて、これ等が現地で末長く使っていただけると思うと、こんなに嬉しい事はありません。
*ERU:緊急対応ユニット(基礎保健・医療型ERU)
北イラク・クルド地域戦傷外科病院支援活動 井上芳門
派遣期間:2013年3月~5月
派遣先:イラク共和国アルビル県
活動概要及び病院紹介
私は2014年3月1日から4月30日まで、イラク北部のクルド人自治区アルビル県にあるEmergency Management Center(以下EMC)という戦傷外科病院で戦傷外傷患者の麻酔及び術後の管理を行いました。本活動の目的は現在日本では経験する機会が少ない戦傷外科を現場で経験し、海外の医療事情を理解することにより、将来紛争地等で国際的に活躍できる人材の育成です。病院は3部屋の手術室と7床のICUを含めて入院ベッドが48床あります。医師は8名(外科医6名,麻酔科医2名)が常勤しています。
EMCでの麻酔管理について
各手術室に麻酔器が配置されており、シリンジポンプも使用可能でした。しかし、日本と違い麻酔薬の種類が限られ、吸入麻酔薬はハロセンを使用していました。気道確保、呼吸・循環管理のための器具は基本的なものしか無く、普段の麻酔には十分でしたが、挿管困難などの緊急事態が起きた時には不十分と感じました。また現地では麻酔看護師がおり、麻酔看護師は麻酔科医の指示のもと麻酔薬を投与し、麻酔導入の介助や麻酔維持を行っていました。
今回の派遣を通して
滞在期間中,182 例(戦傷関連が114 例)の手術があり、十分に戦傷外科の治療方針及び管理を理解することができました。今回の派遣は私にとって初めての海外派遣でしたが、今までの国内の研修や出発前のブリーフィングのおかげで安全に心身ともに健康で過ごすことができました。私は国際医療救援を志して当院へ初期研修医として入職し、5年目で海外の実地研修に行かせて頂き本当に感謝しています。今後はさらに麻酔科医としての臨床力を磨き、戦傷外科でのミッションに備えて頑張っていきたいです。
北イラク・クルド地域戦傷外科病院支援活動 池内智春
派遣期間:2013年1月~3月
派遣先:イラク共和国アルビル県
活動概要
この活動は2011年に日本赤十字社とイラク赤新月社との二国間活動として開始されました。私が活動したEmergency Hospital of Emergency Management Centerは、クルド人自治区・アルビルにある病床数36床の小さな戦傷外科病院です。この病院は戦傷外科に特化しており、銃や爆弾などによって負傷した患者さんが毎日運ばれてきます。私はここで2ヶ月間病棟看護師、手術室看護師として活動しました。
「看護はその人の生きる力を支える仕事」
戦傷外科の治療はとてもシンプルです。一言で言えば「不要な物を取り除くこと」でした。活動当初は処置の手順が分からず、またカルテに苦慮しました。しかしスタッフはとても親切で嫌な顔一つせず接してくれました。活動前は、クルドと日本の相違点にばかり目が向いていましたが、看護の基本に国や文化の違いはないのだと感じました。
「家族のつながり、人への思いやり」
この病院では入院患者さんの付き添いが義務づけられており、すべての入院患者さんは自宅への退院となります。患者家族は入院中から継続して日常生活の介助を行っています。また、毎日負傷した人が搬送されてくる中で、スタッフだけでなく入院患者さんも外国人の私に対して、困っていることがないか、と声をかけてくれていました。女性スタッフはこの地域の郷土料理を作って持ってきてくれました。この病院での2か月の活動は、この地域に暮らす人々の家族のつながりの強さと人への温かい思いやりを強く感じる毎日でした。
基礎保健Rapid Deployment フィリピン南部台風災害救援活動 新居優貴
派遣期間:2012年12月~2013年1月
派遣先:フィリピン共和国ミンダナオ島ダバオ
概活動要
2012年12月、フィリピン南部ミンダナオ島を台風24号((Bopha)が直撃し、激しい雨と風により洪水や土砂崩れが起こり、死者・行方不明者は1,800人以上の甚大な被害をもたらしました。災害時の初期対応はフィリピン赤十字社に加え、ミンダナオ島での活動に従事していた赤十字国際委員会(ICRC)が行いました。ICRCは台風被害により破綻した保健システムの補完目的で、基礎保健支援のの緊急救援(RD;Rapid Deployment)チームを初めて派遣しました。私は初動チームのメンバーとして1か月間、最も被害が大きかったバガンガ州で技術要員として活動しました。
現地入りして
基礎保健の活動の診療所設営地を決めるため、先遣隊としてチームリーダーと共に、バガンガ州に入りました。台風による救援でしたが、倒壊した家や、薙倒された樹木、ぬかるんだ地面は津波被害を彷彿とさせ壊滅的な光景でした。 現地到着時から十分な電気や水が無く、診療所設営に着手してからは、滝のように降る雨と強風により資機材は壊れ、また幾度となく設営工事は中断を余儀なくされ、開設予定日には間に合わないのではないかと思いました。
地元スタッフに感謝
何もなかった更地を整地し、これまで経験したことがない強風、大雨の中、一日も早い診療開始を目標にICRCスタッフ、RDチームや地元スタッフと綿密な打ち合わせを行い、時には励まし合いながら、設営に取り組みました。診療所が完成した時、設営に携わったスタッフの笑顔を見て、とても感慨深いものがありました。どの救援においても、技術要員の活動の裏には必ずと言っていいほど、地元スタッフの存在があり、彼らの協力は不可欠です。今回の救援活動では特に彼らの地元ならではの大雨や強風に対する工夫や経験なしでは成功はなかったと思います。
日本赤十字社とフィリピン赤十字社との二国間事業であるフィリピン保健医療支援事業は、2005年からキリノ州において、そして2010年からオーロラ州において継続して行われています。両事業地域には全国の赤十字病院から看護職を派遣し、当院からも事業開始時から看護職を派遣してきました。新しい事業地域であるオーロラ州では、2010年の開始当初から当院の看護師が保健要員として活動を継続しています。オーロラ州都から最も遠いディラサグ郡では、地域保健ボランティアの育成や、保健医療施設の建設、給水システムやトイレの整備を行い、公衆衛生環境の改善を支援しています。地域住民自身による健康管理能力とフィリピン赤十字支部の組織基盤を強化することで、日本赤十字社の支援が終わった後も、住民自身の手で健康を守る活動を継続できるように活動しています。
オーロラ派遣要員 清水 宏子
フィリピンで活動を開始し1ヶ月が経ちました。こちらでは5月から11月までが雨期で、豪雨になることもしばしばあります。年間を通して暑いフィリピンですが、1日の中での温度差が大きく、朝方に肌寒い日もありますが日中は日傘が欠かせません。
普段はこのオーロラ州支部で、これから行うプロジェクトの計画を立てたり、書類を作成したりしています。支部長のシャーウィン、事業コーディネーターのエレン、事業地担当のニコ、ドライバーのロドニー、支部スタッフのエラ、ダイアン、リタと一緒に活動しています。
支部の周りは田んぼで、水牛が草を食べている のどかな風景が広がっています。 |
ガラスのない窓が多く、エアコンなしで自然の風を感じながら仕事しています。 | トイレや水道の水が出ないため、近くのガソリンスタンドからタンクに水を汲んできて、トイレの流し水や食器洗いに使っています。 |
支部の外では、ボーイスカウトの集会の時に子どもたちに救急法を教え、また祭日には人の賑わう場所に救護所を設置し活動しています。これらの活動では、トレーニングを受けたボランティアの人達が中心となって活躍しています。仕事に就くことが難しいフィリピンでは、働き盛りの年齢の男性ボランティアも数多くいます。正職員の人数が少ないフィリピンの赤十字にとって、ボランティアの人達が大きな役割を果たしていることを実感しています。そのボランティアから救急法を教わる子どもたちは、自分たちのスカーフを三角巾代わりにして、熱心に練習していました。怪我や病気の時にすぐに病院に行ける日本とは違う環境にあって、応急手当や救命処置は自分たちでやるという意識を子どもたちもしっかり持っているように感じました。
フィリピン保険医療支援活動 フィリピン便り
~活動開始から一年が過ぎて・健康教育の開始~
平成24年8月
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院 看護師 櫻井美弥子
フィリピン赤十字社と日本赤十字社の協力のもと、2011年4月からフィリピン共和国・オーロラ州ディラサグ郡で、地域保健活動が開始されました。対象地域には、郡の保健所が1つ、そして各バランガイ(行政区分の最小単位)に村落保健所が1つずつありますが、両施設ともに医療器機不足、人材不足、建物の老朽化など様々な問題を抱えています。常駐する医師は人口約1万4千人に対し1人。各バランガイへの医師の訪問は年に一度あるかないかで、医療サービスを住民に提供することが難しい状況です。また、収入が少なく最低限必要なものを購入することさえ困難な住民も多いことや医療施設までの道のりが険しい等の理由により、医療サービスへのアクセスが非常に厳しい状況にあります。そのため、住民自身の健康管理能力を向上することが非常に重要となります。
現在、私達は93人のコミュニテイー・ヘルス・ボランティアと共に活動しています。住民であるボランティアさん自身が衛生・疾病予防知識を得て、住民から住民へと知識を拡げ地域に根差した活動へと展開できるよう支援することが、大切と考えているからです。まずは昨年2月にボランティアさんが行った住民への健康知識調査をもとに、自分達の抱える健康問題とは何か、その解決策は何か、ということを自身で考えてもらい、健康教育の必要性への『気づき』を促しました。バランガイ毎のミーティングでは、活発な意見が交わされ今後の健康教育へのボランティアさん達の意欲を強く感じました。今後も地域全体に健康教育が普及できるよう、継続して活動を行っていく予定です。
*要員の声*
活動が開始されて1年、今やっと活動が本格化してきました。ボランティアさんや、地域の方々と交流を重ねる度に、医療へのアクセスの困難さや生活環境の厳しさを実感し、なんとかこの状況を改善できる支援をしたいと思いを強くせずにはいられません。そして雨の日も、日差しの強い日も、何キロも離れた場所からミーティングに参加して下さるボランティアさん達に感謝の気持ちでいっぱいになります。日本から遠く離れたこの地に赤十字の活動が長期的に根付くことができるよう、ボランテイアのみなさん、フィリピン赤十字社のスタッフと共に日々活動を続けています。
ハイチ便り
看護師 山之内千絵
国際赤十字赤新月社連盟(以下連盟)は2010年1月12日、マグニチュード7.0のハイチ大地震発災直後から緊急支援活動を行い、現在では復興支援へと継続してハイチへの支援を行っています。私は、連盟の保健活動の要員として2012年1月から派遣されレオガンで活動しています。
「おはようございまーす」、「どんな感じ?」、「いい感じ!」。これは、連盟レオガンオフィスで時折見られるハイチ人スタッフとの朝のやりとりです。日本語で挨拶をしてくれるハイチ人スタッフは発災後、日本赤十字社ERUで働いていたスタッフです。この朝のやり取りは、日赤が大地震発生から2年以上経った今も継続して支援していることを実感させてくれる瞬間です。
私が担当している保健活動では、病気予防の啓蒙活動や必要時に応急手当などを行なう人材(こちらではコミュニティファシリテーターと言います)を育成し、草の根レベルで、住民の健康を守る仕組み作りを行っています。事業の開始は2010年7月ですが、2010年10月頃からコレラ大流行への対応などにより、実際に人材育成が開始されたのは2011年5月でした。
コミュニティファシリテーターの主な活動は、自分たちの地域で衛生教育を行うこと、そして病気の予防や早期発見に努めることです。例えば、家庭訪問やグループを対象にした教育でマラリア予防についての知識や乳児のケアの方法、妊娠中の体調管理に関わる知識などを広めています。また、医療施設への早期受診を勧め、重症化を避けることも大事な一つの役割です。ここ、ハイチでは多くの言い伝えが残っており、それを信じて実践する人がたくさんいます。例えば、生まれたての赤ちゃんの頭には柔らかい部分があります(大泉門)。その柔らかい部分が異常であると信じ、その部分にナッツを敷き詰め布等できつく縛っている人がいます。また、熱がある子どもへの特効薬として野ネズミを食べさせるなど、根拠のない言い伝えを信じて実行する人が少なくありません。長年信じ実行されてきたことを急に変えることは難しいこともありますが、コミュニティファシリテーターが正しい知識を身につけることで、救える命があることを理解してもらえるよう積極的に活動しています。
2012年4月末現在では、309名のコミュニティファシリテーターを育成し、10の地域で活動が開始されています。2012年末までにさらに350名ほどのコミュニティファシリテーターを育成し、2014年末までには、彼ら自身が自分達の活動計画を立案し、実施できる体制を作る予定です。連盟の支援が終了した後も、彼らの活動が継続的に地域の健康を守る活動が行えるよう、今後もハイチ赤十字社スタッフとともに活動を支えていきたいと思います。
フィリピン保険医医療支援活動
そこに暮らす人びとのネットワークがいのちと健康をまもる最短のアクセスになるように
平成24年2月
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院 看護師 山田則子
日本赤十字社は6年間にわたるフィリン共和国キリノ州における地域保健医療支援活動の成果を受けて、今年度4月から新たな活動地をオーロラ州ディラサグ郡として支援を開始しました。昨年の10月半ばにフィリピンに着任してから4ヵ月が経過します。派遣地のオーロラ州は国内でも年間を通して降水量の多い区域にあり、ディラサグ郡での活動ではこの雨の影響によってやむを得ず延期しなければならないことを度々経験しています。今までに6回活動拠点のバレーから活動地へ赴きましたが、土砂崩れで大木や岩が唯一の道路を塞ぎ、水はけの悪い場所は沼のようになり、橋がないため増水した川を牽引車の誘導に頼って渡るなどしながら、145kmの道のりを、8時間以上かけて行き来しました。
国連国際防災戦略事務局の2011年度には、全世界で起きた自然災害の中で、フィリピンは12月のミンダナオでの台風WASHIを含め年間33件の大きな災害があり、被災頻度として世界1位。またこの1年間に、全人口の約12.5%にあたる人々(約1,000万人)が、被災を免れることができなかったとありました。
活動のパートナーであるフィリピン赤十字社は、災害対策を重要な位置づけにし、「Red Cross 143(ワン・フォー・スリー)」として地元に根差したボランティアの育成に力をいれています。ひとつのバランガイ(最小単位の行政区域で、村のような自治体)に、ひとりのボランティアリーダー、そして43人のボランティアで地域全体を災害や健康被害から守ることを目指しています。ディラサグで始まったばかりのコミュニティー・ヘルスボランティアもまた、それぞれが「Red Cross 143」のメンバーとして、地域の人々のいのちと健康を支えることができるようにトレーニングを積んでいます。
地元のことを最も把握している住民自身の目や耳、声や手によって、地域に適した災害対策の準備、早期発見、早期対応ができるように。そしてまた、平時でも災害時でも、最低限の保健医療が提供できるように。そこに暮らす人びとのネットワークがいのちと健康をまもる最短のアクセスになるように、がんばっています。
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院
看護師長 関塚 美穗
私が赴任した2011年のイラク北部のアルビル市は 、1980年代から約20年間続いたサダムフセインによるクルド人迫害の辛い時代を乗り越え、復興を目指し学校や病院などの建築ラッシュになっていました。
その反面、車でほんの1時間離れた隣の都市はではまだ爆発事件や銃撃事件が頻発しており、一般市民の被害者が後を絶たたない状態でした。
ある日、自宅を突然襲撃され、腹部に銃弾を撃ち込まれた女性が運ばれてきました。救急外来での初期対応を終え、緊急で手術室に運ぶ途中、「あなたはどこから来たの?」と聞かれました。日本からだと答えると、私の手を握り「津波で亡くなった人とその家族のためにお祈りします」と言われました。腹部を撃たれ、自分の命が危うい状態の中で、遠い日本の被災者の人々のためにお祈りするという言葉をもらうなど予想外であり、「ありがとうございます」以外に何も言うことができませんでした。
無事に手術が終わって数日後、女性病棟に入院している彼女の面会に行きました。その日は、土曜日で家族の訪問日でした。 病院の中庭で、見舞いに来た家族に囲まれながら、穏やかに談笑する彼女を見つけました。
かねてから質問しようとしていたこと、何故、自分の命すら 危うい時に、遠い日本で起きた津波の被災者のために祈るという ことが言えたのかについて聞いてみました。
彼女は、
「私は、ずっと自分達は長い紛争のために苦しんでいると思い、日本やヨーロッパの平和な国の人達を羨んでいました。でも、災害は突然起こり、平和な日本でもたくさんの人が亡くなりたくさんの人が家族を亡くし悲しんでいるということを津波の ニュースで知りました。私はたくさんの家族がいます。家族とこうして一緒にいられる時間があるだけで、私は幸せだと思うようになったのです。 理由は違うけれど、悲しくて苦しい経験をしているのは同じ。私たちだけが辛い思いをしているのではないと知り、それからは日本の人のためにも祈っているんです。」 と言われました。
静かに続く紛争の中で、被害者は後を絶ちません。 私はそれを心に刻み、全ての人の苦しみが少しでも軽減するよう活動を 続けることを再度決意しました。
タンザニア難民支援活動
「ジャンボ!」(スワヒリ語でこんにちは)
病院のみなさん、お元気ですか?山之内千絵です。
私は、タンザニア赤十字社と日本赤十字社が協同でおこなっている難民の支援活動のため、2010年2月からタンザニア共和国で活動しています。
部族紛争・食糧危機により、周辺国から50万人以上の難民を受け入れています。難民受け入れから約15年が経ち、2010年6月現在、ムタビラキャンプ(ブルンジ共和国からの難民)、ニャルグスキャンプ(コンゴ民主共和国からの難民)を残し、他の難民キャンプは閉鎖されました。難民キャンプの数は少なくなりましたが、いまだに自分の国の安全が保たれず、帰還できない難民約10万人がキャンプで生活しています。
この難民支援活動には、当院から過去に高井久実子助産師と関塚美穂師長も派遣されていました。私は、この難民キャンプの中にある病院とヘルスポストを中心に活動しています。難民の方々がいつでも安心して医療を受けられる環境を整えるため、治療や手術などに必要な医薬品や医療資機材の定期的な購入の支援を行っています。そして、よりよい医療を提供するためにタンザニア赤十字社スタッフと、あるいは難民スタッフと改善策を一緒に考えています。また、日本の皆さんからの寄付金が適切に使用されているかを確認することが主な活動です。
今日は、その活動の中で出会った双子の赤ちゃんのお話をご紹介したいと思います。
私が赴任してすぐのある日のことです。キャンプ内の病院で双子の赤ちゃんが生まれました。二人とも1,500gに満たない小さな小さな赤ちゃんでした。日本ではこの双子の赤ちゃんを保育器に入れて観察をするところですが、ここ、タンザニア難民キャンプの未熟児室には赤ちゃんを温める電球しかありません。そのため母乳とお母さんの抱っこが赤ちゃんの成長を助けるためにできることの全てです。私は、毎日、未熟児室を訪れ赤ちゃんの状態を看守りました。タンザニアに来てすぐだったこともあり、スワヒリ語はほとんどわかりませんが、「赤ちゃんの状態はどうですか?」と言うスワヒリ語を現地スタッフに教えてもらいました。その時の私には、毎日お母さんに覚えたばかりのスワヒリ語で「赤ちゃんの状態はどうですか?」と、聞くことしかできず、歯がゆい思いをしていました。しかし、そのお母さんは、私の姿を見ると、「二人とも元気よ」と嬉しそうに報告してくれるようになりました。
2ヶ月ほど経ったある日、「今日、二人を連れて帰れるの!」と双子の赤ちゃんのおかあさんが飛びきりの笑顔で教えてくれました。赤ちゃんは2,000gをやっと超えたばかりで、3,000gを超えるまでは様子をみたほうがよいことを医師から勧められていましたが、双子の赤ちゃんのお母さんが首を縦に振ることはありませんでした。このお母さんには、この双子のほかにも1~10歳の5人の子どもがいるのです。子どもたちを育てるためにも、退院せざるをえないようでした。私は複雑な思いで一杯でしたが、退院の際、見送りに行った私に、そのお母さんは「アサンテ サーナ(どうもありがとう)」と幸せいっぱいの笑顔を見せてくれました。
退院の日から約1ヶ月後に、私はこの双子の赤ちゃんに外来で再会することができました。双子の赤ちゃんは、2,500gを超え、すくすくと育っていました。双子の赤ちゃんのお母さんは、「二人とも大きくなったでしょ?病気もせず、元気よ。」と誇らしげに近況を教えてくれました。高度な医療を受けることは出来ませんが、母乳とお母さんをはじめとする家族の温かい愛情に包まれ、この双子がすくすく育ってくれていることをとても嬉しく思いました。
ここタンザニア難民キャンプでは、いまだにマラリアや下痢、肺炎など治療をすれば治る病気で命を落とすケースが少なくありません。しかし、ここには「一人でも多くの命を助けたい」と働くタンザニア赤十字社スタッフがいます。これからも、そんな彼らとともに、ひとつひとつの命を大切にし、少しでも多くの命を救うために活動したいと思っています。そして、一日も早く全ての難民が安心して母国に帰還できる日が来ることを願ってやみません。
伊藤明子国際医療救援部副部長兼看護副部長は赤十字国際委員会(ICRC)が実施するアフガニスタン・ミルワイズ病院への支援活動のため、2009年9月からアフガニスタン・イスラム共和国へ派遣されていました。
これは、ヘッドナースとして、また今年の2月からは病院プロジェクトマネージャーとして活動し、戦闘犠牲者の救護活動や現地スタッフへの教育、支援活動に従事した伊藤副部長の活動記です。
┃赤十字国際委員会による
┃「アフガニスタンにおける支援活動
アフガニスタンでは、昨年8月の大統領選挙後に情勢は悪化し、反政府武装集団に対する国際的な軍事戦略の発表により、さらに治安は悪化、戦闘は激化の一途をたどっています。カンダハール県はアフガニスタンの南部に位置し、カルザイ大統領の出身地であり、また反政府武装集団の発祥・根拠地と言われています。
そのアフガニスタン南部5県における唯一の公的な基幹病院が、私の活動したミルワイズ病院です。対象地域の人口は約400万人で、病床数365 床の病院です。赤十字国際委員会(以下ICRC)は1996年から継続してこの病院を支援しています。この長年にわたる支援の成果は、病院の環境、運営そして職員教育の水準に感じることができます。
ICRCのカンダハール事務所には、世界20数カ国から派遣された人々が活動しています。この中で、ミルワイズ病院を支援する国際チームは16カ国の要員で構成されていました。
この病院には、病院長をはじめ看護部長、事務部長、各病棟と外来に看護師長と看護師、看護業務補助者兼警備としてのクリーナーがいます。職員総数は約300名。医師(研修医含む)約60名、助産師約20名、看護師約70名(病棟・手術室・外来)、その中で女性看護師は13名だけです。
カンダハールはアフガニスタンの中でも保守的な考え、習慣が多く残っている地域で、特に女性に対する制限が多くあり、女性患者さんの病院への来院や、日々の看護の実践に支障をきたすことが多々あります。ですから私たち外国人女性スタッフも服装、行動には細心の注意を払い、常にスカーフを被って活動しています。
┃傷ついた人の命を中立・公平に守ることが使命
病院にはテロによる爆発や地雷、銃によるけがをした兵士、警察官、そして紛争に巻き込まれた地域住民が運ばれてきます。反政府武装集団兵士も運び込まれ、時にはこれを捕まえようとする人々が病院にくることもありました。しかし私たちは、常に中立・公平な立場で、例え政府軍兵士・反政府武装集団兵士であっても、病院の中では「一人の患者さん」として治療、看護を行っています。戦闘やテロを止めることはできませんが、傷ついた人の命、尊厳を守ることに最善を尽くしてきました。
戦闘地域ですので私たちの行動にも制限があり、車で数分の病院と住居の間は常に2台の車両で移動しました。私たちはどこにいても常に無線機と携帯電話を持ち歩かなければなりません。病院の前には幹線道路が走っていて軍隊の車両は日常的に往来しており、何らかの故障で軍の車両が立ち往生すると、私たちの緊張は高まります。
この支援活動の最高責任者として、病院内にいても常に危機管理に神経を研ぎ澄まし、状況に応じて要員に危機管理行動指示を出し、夜間テロ等により多数の負傷者が病院に搬送されると、ICRCチームの病院への派遣に備えて情報を収集し、出動の判断をします。日頃からミルワイズ病院長と協力して、多数の戦闘負傷者の受け入れ体制を整えるのも私の役割です。
┃「生きてほしい 無事でいてほしい」
┃アフガニスタンに一日も早く平和な日々を・・・
カンダハールでは今年に入って毎日のようにテロ、爆破事件、銃撃戦等により政府軍兵士・反政府武装兵士、国際軍兵士、そして一般市民の負傷や死亡が報告されていました。連続して月に1度は大きな爆破事件が起こり、私たちの住居の窓ガラスが爆風で多数破損したこともありました。爆破事件の翌日は、出勤してくるICRC現地スタッフの表情は暗く、病院は負傷した多数の入院患者で溢れ、看護師たちは不眠不休の看護の疲労の中で、いつかは自分あるいは自分の家族が目の前の患者のようになるのではないかという不安を押し殺すかのように、言葉数が少なくなります。
ICRCの派遣は7回目になりますが、今回は戦闘地域に身を置くことの立場と役割を常に意識し、その最前線で活動していることを実感する毎日の中で過ごした8カ月でした。
アフガニスタンの人々の挨拶は、私たち日本人の挨拶に比べるととても長いものです。その背景には、生命の危険に曝された社会に住み、出会った時にはお互いが無事であったことの喜びを分かち合い、互いの家族・友人の無事を確認し合い、そしてまた必ず会えるという確証のない別れの意味が込められていることを、私は実感しました。
過去の派遣で何度となく別れの言葉を、現地の方々と交わしてきました。けれど今回は「また会いましょう」という言葉ではなく、「必ず無事でいてください。必ず生きていてくださいね。」という言葉が、無意識に私の口からこぼれていました。この言葉が「彼らを守ってくれますように」という祈りであるように、私は一人ひとりと握手を交わしました。生きていて欲しい。無事でいてほしい。
こうして名古屋に帰った今も、毎日彼らのことを想い、祈っています。そして、アフガニスタンに一日も早く平和な日々が訪れることを。
ジンバブエ・コレラ救援活動について
1.被害状況
2008年11月上旬からジンバブエでコレラが発生し、全国10州すべてでコレラの感染が見つかっており、1月13日(火)までに全国で4万448名が感染、2,106名が死亡している(世界保健機構:WHO)。
今回のコレラ大発生の主な原因は、衛生的な飲料水やトイレが不足していること、脆弱な保健衛生インフラと病院職員の不足による。また干ばつ・洪水被害や年率2億3100万%を記録した物価上昇による食糧難で、510万人が食糧援助を必要としている上、医薬品代や医療従事者の給料を支払えず、公立病院の大半が機能停止していることが流行に拍車をかけている。
2.国際赤十字の動き
(1)赤十字国際委員会(ICRC)は、ハラレにある総合病院8箇所に対して必要な医療資機材を供与し、ハラレ市内の病院及び農村部の診療所に対する医薬品の供与等の活動を11月下旬より行っている。
(2)国際赤十字・赤新月社連盟(連盟)は203,302スイスフラン(約1,500万円)の資金を拠出し、衛生的な水の提供、衛生教育の実施や、コレラ患者の早期発見、病院への搬送、 下痢対処等の初期救援活動能力向上等、ジンバブエ赤十字社が行う10万人を対象とした対応を支援している。
(3)ジンバブエ赤十字社は、ジンバブエ政府保健省、WHO及びUNICEF等の国連機関と調整しながら、ボランティアを通じて、浄水剤、給水タンク、石鹸、手袋やマスク、衛生教育教材等の配布を行っている。
(4)日本赤十字社の対応
基礎保健ERUチームは、12月18日より、ジンバブエ北西部のマショナランド・ウェスト州、カロイ(Karoi)を中心とした地域で活動をしている。
活動内容としては、コレラ患者の入院している診療所の支援及びコレラセンターの運営である。
第3班(医師2名、看護師3名、管理要員2名)は2月3日日本を出発し、第1班(10人)と第2班(12人)を引き継ぐ形で活動を開始する予定である。
(5)日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の動き
1班 白子順子国際医療救援部長(チームリーダー)
山田悌士第二臨床工学課長(技術要員)
2班 新居優貴臨床工学技士(技術要員)
吉鶴由紀子看護師
山下勇吉(管理要員)
3班 ヤップ・ユーウェン医師
フィリピン台風フンシェン救援活動
看護師 西口佐世子
西口佐世子看護師は、フィリピン保健医療支援活動のため6月12日から、沖縄赤十字病院の糸数久美子看護師とともに、活動の拠点であるフィリピン共和国キリノ州に赴任しました。
しかしフィリピンの東方海上で19日発生した台風6号(フンシェン/フィリピン名:フランク)が、20日から22日にかけて同国南部から中部を直撃しました。このフィリピン台風6号(フンシェン)による被害は、同国の38州に及んでおり、この台風による死者は288人、行方不明者は45人、負傷者は165人、被災者は116万1,664人と報告されています(25日午前6時 フィリピン国家災害調整委員会(NDCC)発表)。
そのため、西口・糸数両看護師は、フィリピン赤十字社の救援チームとともに急遽台風による被災者の救援活動を約2週間程度活動するこことなり、現在活動中です。
本社リンク http://www.jrc.or.jp/active/saigai/news/1539.html
台風犠牲者救援活動終了後は、天候に大きく影響を受け、住民の大多数は自給自足の生活をしているフィリピンの山岳部の農村で、現地のボランティアの保健ワーカーの人々ともに、病気の予防などの保健活動や衛生教育等の生活指導等を行ないます。
タンザニア赤十字社難民支援活動
看護師 関塚美穂
中央アフリカ東部のタンザニア連合共和国の北西部にあるキゴマ州には、2009年1月現在なお、1990年代の政情不安・部族戦闘・食糧危機により発生したコンゴ民主共和国人難民、ブルンジ共和国人難民が生活する難民キャンプが3つ残っています。日本赤十字社は、これら3つの難民キャンプ内でタンザニア赤十字社が行っている診療活動・疾病予防・母子保健活動に必要な資機材や医薬品などの支援を行っています。私の仕事は、タンザニア赤十字社の医療保健活動に参加し、サービスの向上について一緒に考えること、日本赤十字社からの支援金が適切に使用されているか確認することです。
この支援活動の主役は、タンザニア赤十字社のボランティアの人たちです。彼らは、隣国からの難民の人々を助けるために自分の家族と離れ、タンザニアの中でも一番発展が遅れているキゴマの過疎地で、月々のわずかな手当てで不自由な生活をしながらも活動を続けています。彼らの存在なくしては実際のニーズに即した形あるサービスを提供することはできません。とはいえ、活動するためには資金が必要です。私は現地で、遠く離れた日本から「難民の人々を助けたい」と寄せていただく寄付金の大切さと、現地で実際の支援活動をするボランティアの人々の大切さの両方を感じています。
文化・生活習慣の違いや言葉の壁等に戸惑い、悩むことは度々ありますが、現地の人々の笑顔に支えられ、「ポレポレ(ゆっくりと)」を合言葉に、今日も彼らと力を合わせて、一人でも多くの難民の疾病からの回復、健康維持のために頑張っています。
~覚えていますか?私たちのこと~
クリスマス直前、一つの難民キャンプが閉鎖となりました。自国に帰ることができず残留した約1万人の難民が、タンザニア赤十字社が病院運営をしていたニャルグスキャンプに移住してくることになりました。
この難民移住の計画は、1日500人ずつ、20日間かけて1万人を移動させるというものでした。突然のことだったため新しく移住してきた難民の家の準備はなく、彼らは自分で家を作るまでは、支援金が途絶え廃校となった小学校の校舎の中で雑魚寝をしなければならないという話でした。 タンザニア赤十字社は、新たな難民の受け入れ用に救護所を設営することを決めました。しかし、病院はクリスマスでも休診するわけにいかず、また、救護所での活動に従事するスタッフも必要となります。
どうしたらいいのか・・・みんなで話し合い、その結果、「全員がクリスマス休暇をキャンセルして対応しよう」ということになりました。
難民移動の初日、大雨の中、私を含む難民受け入れスタッフは、廃校となった学校の一角に設営した救護所で待機していました。難民の人々が到着した頃にはすでに夕方になっていました。国連の担当の人から、「この500人の難民の名前の登録が済んだら帰ります。赤十字さんも帰っていいです。」と言われました。その時、クリニカルオフィサーのマンボは、「ミホ、みんなこんな天候で長旅をしてきたのだから、体調不良者が出るに決まっている。僕たちはもう少し残って様子を見よう。」と言いました。マンボの予想通り、18時半ごろから、熱を出した子供や、トラックの荷台で揺られて腹痛が始まった妊婦さんなど、次々と救護所に患者さんが訪れ始めました。
あたりは日が落ち始め、電気のない難民キャンプの仮設救護所の中もすっかり暗くなってきましたが、患者さんは途切れる様子がありません。そんな中、キャンプ内のパトロールを担当していた現地の警察官が、「これを使ってください」とランプを持ってきてくれました。 ランプの揺れる明かりのもとで診療は続き、最後の患者さんの診察を終えたのは22時になっていました
その晩、宿舎への帰り道、スタッフみんなで見上げた満天の星空を今でも覚えています。
この救護所での活動は、1万人の難民の人々が順次送られる間、毎晩繰り返し続きました。
誰かのために、自分の時間を惜しまず人々の苦しみを少しでもやわらげようと行動することができるマンボのような人達がいることを、私は決して忘れません。
タンザニア難民支援活動
助産師 高井久実子
タンザニアは90年代の政情不安・部族紛争・食糧危機により、周辺国から最大時80万人近い難民を受け入れ、日本赤十字社は1994年から国際赤十字・赤新月社連盟を通じて支援を開始し、現在はタンザニア赤十字社との二国間活動を行っています。
タンザニア赤十字社は現在、北西部にある三つの難民キャンプ(主にコンゴ民主共和国・ブルンジ共和国から難民 計約15万人対象)で、難民支援を行っています。
私は2007年11月から6ヶ月間、タンザニアの難民キャンプに派遣され、タンザニア赤十字のスタッフとともに活動しました。
難民キャンプは、国連難民高等弁務官事務所がタンザニア政府と協力して管理しており、また様々な組織が協働して難民支援を行っています。タンザニア赤十字社が担当する保健医療活動の活動内容は、難民キャンプ内の病院を中心に、診療・疾病予防・母子保健など、難民の健康的な生活を守る役割を担っており、私は、医薬品の輸送、医療廃棄物の管理方法などについて、現場の医療スタッフとともに話し合い、改善に取り組みました。また、感染症の予防のような難民キャンプ全体の課題については、キャンプで活動する国連各機関や他のNGOの代表と話し合い、解決方法を探りました。
この難民キャンプは開設から10年以上が経過し、難民の生活環境は安定してきていますが、最低限の水や食糧しか供給されず、依然厳しい生活は続いており、マラリア、下痢症、栄養失調など、生活環境が十分に満たされないことが原因による患者さんがみられました。
厳しい環境の中ですが、若者たちは配給食料の空き缶などで楽器を作って歌い、いつのまにか周りの大人も子供も踊り出します。難民キャンプの中で生きる彼らのたくましさ、明るさに、逆にこちらが沢山の励ましをいただきました。
現在はコンゴ及びブルンジでの情勢の安定に伴い、難民帰還が進みキャンプは閉鎖段階に入りましたが、最後の一人が帰国するまで難民キャンプの中で保健医療は重要な役割を果たしています。一刻も早く、難民にとって母国が安心して住める国となる日を願っています。
スマトラ島沖地震津波復興支援活動 インドネシア
看護 藤井知美
日本赤十字社は、2004年12月26日にインド洋沖で発生した巨大なスマトラ沖地震・津波の被災者救援後、緊急救援から復興支援へと段階的な活動を継続しています。
私はインドネシアのアチェ州ナガンラヤ県における復興支援活動の保健要員として、約9ヶ月間活動してきました。インドネシアでの津浪復興支援の内容は、ハード面では、①住宅建設、コミュニティセンター(公民館)、保健施設再建などの建設、②保健施設への医療資機材提供、③マングローブ植林などの建物、そしてソフト面では、①災害看護基礎教育、②青少年活動基盤整備、③地域における救急手当ての普及CBFA(Community Based First Aid)支援、を行っています。
特に、地域における救急手当ての普及では、救急手当てにとどまらず、地域の保健衛生状況を改善することで、災害発生時の被害を最小限にとどめるための知識の普及を行いました。この活動は、インドネシア赤十字ナガンラヤ県支部のスタッフやボランティアたちと活動を共にしましたが、地震の被災者自身である彼らは、住民と一体となって一生懸命活動に取り組んでいました。
復興支援活動は、さまざまな要因により予定通り進まないこともあり、私は「復興支援とは何か」について考えることができました。復興とは、①災害により失ったものの回復と、災害前よりもよい状況への改善とを一体的に取り組むこと、②いのちと健康をまもり、将来の災害への備えをすすめることを目的とする、③復興の主体はあくまで現地の人々と赤十字であること、を学ぶことができました。
派遣中は、文化や宗教などが違い戸惑う場面もありましたが、話好きで明るく、とても前向きなインドネシアの人々に助けられました。インドネシアの人々は、災害前の状態に戻ることにとどまらず、一歩踏み込んだ防災という視点で、一歩ずつ、確実に歩んでいます。これからも様々な困難に直面することがあると思いますが、インドネシアの人々が自分たちの足で歩み続ける日がくることを願っています。
ケニア洪水被災者救援活動
医療技術部 第二臨床工学課
山田 悌士、新居 優貴
ケニア洪水被災者救援活動のため、日本赤十字社は被害が大きいケニア南東部コースト州タナリバー県のガルセン郡に拠点を置き、2006年12月から2007年2月まで基礎保健ERU(テント型の仮設診療所)を展開し、①仮設診療所での診療、②地域住民への保健教育、③ケニアの医療スタッフへの指導などにあたりました。これらの公衆衛生活動を行う医療スタッフをサポートするために、当院からは初動班に山田技術要員、その引継ぎとして新居技術要員が現地に入りました。山田要員は自家発電装置や冷房機の設置、ERUクリニックの立ち上げなど生活や活動の環境の整備を中心に行い、新居要員は活動中に使用している機材の修理や保守点検、現地スタッフに対しての機材の取り扱い訓練などを行いました。
ジャワ島中部地震被災者救援報告
国際医療救援課長
伊藤明子
2006年5月27日午前5時54分(現地時間)ジャワ島中部においてマグニチュード6.3の地震が発生し、震源地はジョグジャカルタからに南へおよそ15km海岸近く、震源の深さは10kmと推定されています。私は、日本赤十字社(本社)から5月27日19時に先遣隊としての派遣要請を受け、日赤医療センターからの医師1名、看護師1名とともに、翌日28日11時に成田を出発し、29日にジョグジャカルタに到着しました。
私達は被災直後から受傷者が多数搬送されている病院の現状を把握するために、病院や被災者の方々の避難所等を訪問しました。病院には、地震発災直後よりバントゥル全域から多数の負傷者が搬送され、廊下や中庭などあらゆるスペースを利用して患者さんを収容していました。病院関係者の話によると、病院での治療が終っても帰る家がないため、病床数以上の入院患者を抱えているのが現状でした。
その後、地震災害被害が大きかった5つの地域を調査することにしました。避難所の設置された広場を訪れると、女性と子供達のみで、男性達は倒壊した家の復旧作業や埋もれた生活物品を取り出すため自宅に戻っていた。避難所広場の近くには井戸があり、食事は手持ちの食材で焚き火を用いて炊事をしていました。しかし避難所にはトイレはなく、近くの川や木陰で用を足しており、とても不便を感じていました。また雨が降ると広場の地面がぬかるみ、水溜り状態になるため横になれず、眠れない夜もあると話していました。学校も地震被害のため閉校していましたが、そんな中でも子供達の元気に遊び回る姿や笑顔が私の気持ちを和らげてくれた。
私達は日赤医療チームが診療活動をする場所を決定し、地域の主たる方々の了解を得て、被災地の医療スタッフと共に救援活動を行う準備に入りました。そして6月1日日赤医療チーム簡易診療所を設置し、診療活動を開始しました。
フィリピン保健医療支援活動のため小林美紀助産師を派遣
現地は深刻な環境で薬や医療支援「継続が必要」
フィリピンへの保健医療支援に派遣から、小林美紀(助産師)が半年間の任務を終えて帰国した。平成18年8月17日には病院にて記者会見にて活動報告を行い、衛生事情が悪い中、薬や医療の継続的支援の必要性を改めて痛感したと報告。
日本赤十字社からフィリピン北部のキリノ州ナグティプナン郡に派遣され、主に農村地帯の村などを訪れ、ヘルスワーカーへの保健指導や水供給システムの建設準備などに取り組んだことや、手作りの紙芝居で子どもたちに手洗いの仕方を教え、体温計の使い方が分からないヘルスワーカーに基本を教え、腸チフス菌などの細菌から身を守るため、水を沸騰させる必要性を伝えたりしたことや、食料事情が悪い中で栄養摂取の仕方などにも気を配ったりしたと、活動報告を熱く語った。
現地では山道を何時間もかけて歩いて、山奥の村落に移動した.タガログ語でのコミュニケーションがうまくとれず、苦労もしたが、ふと感じる現地の人の温さや、子どもたちの笑顔に元気をもらい、なんとか力になりたいと強く思ったという。
小林さん自身は、イラン南東部地震やスマトラ島沖地震の際に被災地で救援に当たっていて、今回で3度目の海外での支援活動となりますが、会見の中でも「言葉が通じなくて苦労したが、現地の人は温かく迎えてくれた」と振り返り、今後の活動については「現地での支援を継続していくことが大切であり、私自身は語学を勉強し、もっと深くかかわれるように努めたいことや、深刻な医療環境を良くするため、もう一度行きたい」と熱意を語った。
会見での新聞報道は 朝日新聞・読売新聞等に2006/08/18付けで掲載された。
海外派遣研修/インドネシア
名古屋市第二赤十字病院の派遣スタッフ
看護師 関塚 美穂
関塚美穂看護師は第3次要員として、
2005年12月~2006年3月の約3ヶ月間、
現地で活動しました。
Mission 病院支援
現地の病院で医療の質を高めるための活動を通して学びました
インドネシア赤十字社ボゴール病院で行われた保健医療支援活動には、当院から関塚美穂看護師が参加。ボゴール病院への医療機材の支援に伴い、現地医療スタッフに機材操作などの指導を行ったほか、衛生面の改善にも取り組みました。前任者から活動を受け継いだ関塚看護師は現地スタッフと共に働くことを通じて問題点を見つけ出し、ゴミの分別や医療機材の衛生管理に関する提案・指導を実施し、一定の成果をあげました。個の経験を通し、看護師としての専門能力だけでなく、高度なマネージメント能力が必要なことを学びました。
デング熱で入院している患児
救急処置資材管理についてミーティング
パキスタン北部地震被災者救援活動 第3班/派遣
2005年12月21日~2006年2月23日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
看護師長 石川 佳世子
技術要員 礫石 英治
Mission 現地スタッフへ引継ぎ
第3班として、石川看護師長と礫石技術要員が現地に入り、第2班の活動を引き継ぎました。 第3班の活動時期は悪天候が続き、都市の病院に搬送できない重症患者を診療するなどの活動を行いました。石川看護師は看護師長として診療介助と看護、保健指導、予防接種などに取り組みました。礫石技術要員は生活用水の補充や現地の電源施工技師と打合せをしながら設備面のメンテナンスを担いました。また、もともとチナリで医療・保健活動を行っていた現地保健省のスタッフとの共同診療も開始し、徐々に現地スタッフへ仕事を引き継いでいきました。
地震で足を失った少年に松葉杖を提供し、歩行指導を実施
円滑な診療を行うための自家発電機の管理、点検
パキスタン北部地震被災者救援活動 第2班/派遣
2005年10月12日~2005年11月13日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
チームリーダー・医師 白子順子
技術要員 山田 悌士
助産師 高井 久実子
Mission 診療活動・母子保健
先遣隊として現地で活動した白子医師は、いったん帰国した後、第2班のチームリーダーとして、山田技術要員・高井助産師とともに再度パキスタンへ飛びました。当初は震災による外傷患者が中心でしたが、その後は、避難生活のなかで体調を崩した肺炎や下痢などの感染症の患者が増えていきました。白子医師は診療活動を、山田技術要員は自家発電装置など設備面のメンテナンスを、高井助産師は妊婦や乳児の支援を中心に、それぞれ幅広く活動しました。
ERUクリニック内での診療
避難生活が続く中、肺炎、下痢患者が増加
下痢患者が多い村にて住民への衛生指導
パキスタン北部地震被災者救援活動/国際赤十字・赤心月社連盟フィールドホスピタル
2005年10月24日~2005年12月18日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
チームリーダー・医師 白子 隆志
Mission 入院患者受け入れ・治療
国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)が設置したアボタバード緊急災害後方支援病院(フィールドホスピタル)は、地震の被害により機能が低下した現地のアユブ大学病院の敷地内に設置された病院。白子隆志医師は、日赤医療チームのチームリーダーとして派遣されました。白子医師の派遣期間中の入院患者数はのべ225人で、その大半が地震による外傷疾患でした。白子医師は、外科医として診療・手術および術後管理の標準化のためのマニュアル作成などにあたるとともに、チームリーダーとして、スタッフの人事管理、アユブ大学病院との連携づくりなどに取り組み、現地での医療支援に大きな役割を果たしました。
回診での包帯交換
入院患者を収容する病棟
パキスタン北部地震被災者救援活動 第1班/派遣
2005年10月12日~2005年11月13日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
技術要員 浅井 由樹夫
第1班は道路が寸断され、孤立状態にあったチナリで、震災による外傷患者を中心に診療を行いました。
Mission ライフラインの確保
震災発生の報を受け、急遽現地入りした第1班要員は、赤十字国際委員会の下、ムザファラバード南東43kmにあるチカールなどで巡回診療活動を行ったのち、さらに南のチナリでERUを展開しました。浅井技術要員は、当初、ムザファラバードでの病院ERU立ち上げの協力や、チカールでの水道設備の破損調査を行いました。そして、チナリでは、診療所テントの設営や自家発電装置の整備・運転などに力を尽くしました。技術要員は一人だったために苦労もありましたが、周囲の協力を得て、早々に医療活動をスタートさせることができました。
水道施設の破損状況の調査(チカール)
チナリに設置された日赤のERUクリニック
パキスタン北部地震被災者救援活動/赤十字国際委員会フィールドホスピタル
2005年10月9日~2006年3月31日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
事業副主任・看護師 伊藤 明子
2005年
10月 9日先遣隊の一員として日本を出発
10月12日先遣隊から離れ、ムザファラバード緊急災害後方支援病院の立ち上げに参画
10月21日事業副主任として、病院運営等の業務にあたる
2006年
2月28日災害後方支援の役割を終えた病院を閉院
3月31日引き継ぎ業務などを終え、帰国
Mission 被災地の調査・病院支援
先遣隊として現地入りした伊藤明子看護師は、その後、赤十字国際委員会(ICRC)の一員として、ムザファラバードで緊急災害後方支援病院(フィールドホスピタル)の立ち上げに参画しました。病院は約100張りのテントで構成されており、最大150人の患者を収容できる規模。伊藤看護師は、各国の赤十字社等から派遣された42人前後の医療スタッフと約150人の現地スタッフを率いる事業副主任として、病院運営、人事管理、および関係機関との調整業務など多方面
で活躍。病院が役割を終えて閉院するまでの約半年間、大規模な災害支援を支え続けました。
業務の間に患児とともに
ICRCフィールドホスピタルの全景
パキスタン北部地震被災者救援活動 先遣隊/派遣
2005年10月9日~2005年10月23日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
医師 白子 順子
看護師 伊藤 明子
Mission 現地の被害状況を調査
地震発生直後、先遣隊として現地に向かった当院の白子順子医師、伊藤明子看護師は、パキスタン到着後、すぐに震源地に近いパキスタン北部地域の調査に向かいました。現地では、被災状況を詳しく調べるとともに、医療ニーズの高さを確認。同時に被災者救援のための診療所を設置する場所の確保などにあたりました。その後、国際赤十字・赤新月社連盟のスタッフなどとともに、テントを携えて、山岳部の調査および診療活動に従事。初期の被災者救援に力を尽くしました。
発災後24時間以内に先遣隊として日本を出発
病院外のテント内で入院生活を送る被災者の様子を視察
海外派遣研修/フィリピン
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
看護師 藤井 知美
看護師 小林 美紀
藤井知美看護師は2005年9月~年2月の約6ヶ月間、現地での研修を重ねました。
そのあとを受け継いだ小林美紀看護師は、2006年2月~同年8月までの6ヶ月間、現地で活動しました。
Mission 地域保健
組織組織作りやリーダーシップの大切さを学びました
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院では、フィリピンでの保健医療支援活動に藤井知美・小林美紀の2名の看護師を派遣しました(各6ヶ月)。2名はそれぞれ「保健医療サービスの拡充」「地域住民の組織基盤強化」「健康増進に向けた住民の行動および生活改善」に取り組みながら、研修を行いました。特に現地では、地域のヘルスワーカーに対する研修を実施し、活動を支援することなどにより、住民自らの手で地域保健レベルの向上を継続することに力を注ぎました。このことから組織づくりやリーダーシップの重要性など多くを学び、帰国しました。
村落におけるプライマリーヘルスケアのため、遠い活動地を訪問
紙芝居による地域住民への衛生指導
スマトラ沖地震・津波被災者復興支援業〜シムルー島〜
看護師長 川崎 登茂子
日本赤十字社は、平成16年12月26日に発生したスマトラ沖地震・津波被災者救援を終了すると同時に、中長期的視点で復興支援活動を行なっています。
私は平成17年8月上旬から、震源地に近いインドネシアのシムルー島で、復興支援活動の保健要員として6ヶ月間派遣され活動してきました。まずは活動する拠点となる事務所を開設することから始めました。そして次に、地震以前に島にはどのような医療施設や機関があったのか、またどのような疾病があったのか、シムルー島での保健・医療水準の調査を行いました。復興支援活動には、他国赤十字社やNGOそして被災地の地域役員との話し合いはとても重要です。活動内容の決定のための調査や話し合いにはかなりの時間を要し、活動が軌道にのるまでには数ヶ月かかりました。最終的に、本活動では、①地震で被害を受けた地域保健施設16ヶ所の修復、②シムルー県立病院の再建(病棟、厨房、洗濯室)と薬品庫と病院職員寮の建設等を行うことを決定しました。
この派遣中に一番考えさせられたことは、「復興支援」ということでした。現地の人々の思いを知ること、被災前の日常の生活が戻ることは頭で考えるほど単純なことではなかったからです。
何度も話をしたり、現場を見たり、自分の想像力も駆使して「知る」ということを体験しました。
そんな私を支えてくれたのは、現場で知り合ったスタッフや人々、日本と各国の赤十字の関係者。そして、当院の皆さまと家族でした。
今も復興の様子が気になる日々ですが、一日も早い現地の人々の生活の再建を祈っています。
スマトラ島沖地震・津波救援活動 第6班/派遣
2005年4月8日~2005年4月28日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
看護師 嘉村 幸子
助産師 小林 美紀
Mission ERUクリニック設置・運営・撤収
2005年3月28日午後11時9分 ニアス島地震発生しました。引き続き救援活動を行う第5班のメンバーから引継ぎ、予防接種やマラリアの検査などの診療介助、ガーゼ交換など外科処置の介助、診療受付やトリアージ(治療優先順序の選別)といったERUクリニックの運営業務に取り組みました。また、地域での巡回診療、母子保健活動、応急処置の講習などを行い、撤収後も継続して医療が提供される体制を整えました。
現地高校生に対し、応急処置の講習を実施。みんな熱心に聞き入っていた。
スマトラ島沖地震・津波救援活動 第5班/派遣
2005年3月1日~2005年3月30日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
看護師 林 聖子
看護師 高井 久実子
技術要員 新居 優貴
管理要員 東条 奈美
●インドネシア赤十字社への引き継ぎ
●支援した地域医療機関と情報交換
●医療機器ほか物品の寄贈
Mission 母子保健・撤収
当初最終班として派遣。他国の赤十字社・赤新月社や地域の医療機関への引き継ぎが主な任務となりました。前班までの活動を継続して救援活動を行いながら、その一方で今後も被災者が継続したケアを受けられるよう、引き継ぎ先の確保・医療機器の譲渡・引き継ぎ用資料の作成などに取り組みました。
皮膚疾患にかかった赤ちゃん。津波の影響で皮膚疾患は多く見られた。
スマトラ島沖地震・津波救援活動 第4班/派遣
2005年2月9日~2005年3月7日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
医師 白子 順子
看護師 赤塚 あさ子
当時、現地で見られた疾患
●津波の後遺症など継続的な治療の必要な疾患
●風邪や下痢など一般的な疾患
●マラリアなどの伝染病
Mission 巡回診療・予防接種
ERUクリニックの運営・現地の病院支援・母子保健・予防接種・シムルー島での巡回診療を継続。この時期には、津波の直接的被害による外傷患者は減少したため、後遺症や内科疾患など継続的治療の必要な患者の診療を行いました。地域的に、マラリア感染などのリスクが高いことから、マラリア検査などの対策をはじめたのもこの時期のことです。
破傷風の予防接種。
こうした保健活動も重要な任務。
スマトラ島沖地震・津波救援活動 第2班/派遣
2005年1月20日~2005年2月17日
日本赤十字社愛知医療センター名古屋第二病院の派遣スタッフ
チームリーダー 石川 清
医師 佐藤 公治
看護師 石川 佳世子
技術要員 浅井 由樹夫
技術要員 礫石 英治
Mission ERUクリニック本格稼働・巡回診療
第2班は、ERUクリニックの運営に重点をおいて活動するとともに、ムラボ地区にある病院への支援、避難民キャンプでの巡回診療、母子保健、予防接種を行いました。また、孤立したシムルー島での巡回診療を開始しました。
ERUクリニックには、次々と被災者が運ばれた。
派遣期間:2015年7月~8月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日、ネパールでM7.8の地震が発生し、日本赤十字社(日赤)は最大の被災地であるシンデュルパルチョーク郡のメラムチ村で診療支援を行いました。私は第三班の技術要員として派遣され、電気や生活水、通信といったライフラインの確保と資機材の管理を第二班から引き継ぎました。また第三班では撤収、寄贈後の資機材をネパール赤十字社のスタッフが使いこなせるようにトレーニングを行いました。
ほぼ全ての資機材を展開し、生活や診療支援が行われました。新しい資機材も多く不慣れであったことや、活動期間中は雨期であったため、いろいろな問題に直面しました。そんな時、いつも地元スタッフのサポートがあり、ともに知恵を出し合って問題解決に取り組みました。地元ならではの解決方法はとても勉強になりました。知らない資機材であっても、みんなで話し合い、行動し、問題を解決する姿はとてもたくましく感じました。
活動地から去る車中で、地元スタッフが「毎日、プレッシャーを感じていた。無事に終えることができて本当に良かった。」といって目に涙を浮かべていた姿がとても印象的でした。いつも笑顔で話しかけてくれた裏側で、そのような重圧を感じていたことは全く知りませんでした。過去最大規模のERU活動が無事に行われたのは、彼のおかげであったといっても過言ではありません。日赤の活動はいろいろな人々によって支えられてきたと再認識した一場面でした。
派遣期間:2015年6月~7月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
6月4日から堀部技師の後を引き継ぎました。すでに発災後5週間経過しており、ERU活動開始時には30件前後/日であったX線検査数は、10件ほどに減少し、災害由来ではない一般外傷や、内科疾患の患者さんの占める割合が増えてきたところでした。技師を派遣するには費用対効果の面で疑問の生まれる業務量ですが、現地には通常のX線業務のほかに、私が担うべき役割がありました。
活動拠点であるPHCC(診療所
)には、従来からX線撮影機器が配備され、現地担当者もいましたが、専門知識を持たないために診断に適したX線写真が得られていなかったようです。このような背景から、PHCCよりX線担当者のトレーニングを依頼されました。
そこで限られた滞在期間でも効果を残せるよう、各種マニュアルを作成し、それらを元に担当者を教育すると共に、PHCCのX線装置等を整備し、7月にはERUのX線システムからPHCC本来のものへ完全移行しました。ハード・ソフト両面で生まれ変わったメラムチのX線検査室は、その後現地医師により写真の質が向上したとの評価を受けました。
ネパールにはメラムチと同レベルのPHCCが多く存在しており、今後も継続的な支援が望まれるところです。
ERUにX線システムが投入されるのは、2010年のハイチ地震に続き2回目で、まだ十分な経験が蓄積されていません。そこでERUにおけるX線システムの運用に関する課題抽出が求められました。電源供給、画像データ管理、ワークフロー等について、今回様々なデータを採集することができました。今後のERU運用への活用が期待されます。
派遣期間:2015年6月~7月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日にネパール共和国中央部で発生した地震は、8,600人以上の犠牲者、80万人以上の方々が被災しました。基礎保健・医療型緊急救援ユニット(以下、ERU)の第2班管理要員として6月初めから1か月半ネパール共和国シンドゥルパルチョーク郡メラムチ村で活動しました。現地では、診療所の支援、巡回診療やこころのケアなど被災者へ直接治療やケアを行う活動の他に、地域の基礎保健力を高めるためのコミュニティーヘルス研修会などの活動が展開されました。
はじめての派遣である私はERUチームの一員として「できる事は何でもやろう」と現地に入りました。医師や看護師などの医療スタッフは被災者の方々に医療を提供する。そして管理要員は医療スタッフが医療を提供できる環境を整える事に力を注ぎました。現地スタッフの人事管理、前渡金(事業費)、車両運行、通信機器の管理などを中心に行いましたが、時にはコミュニティーヘルスの講習会で赤十字救急法の一部を現地の方々へ指導し、ERU撤収後の地域の基礎保健力向上に関わることが出来ました。
7月に入るとERUチームの撤収する目途を立てるなかで、我々の活動に協力してくれている現地スタッフたちにも撤収のスケジュールを伝え、残りの期間活動を共にしてくれるか面接を全員と行いました。その時一人のスタッフが「赤十字の活動には本当に感謝している。この村の人々そしてネパールの人々にとって赤十字の活動は大きな支えだ。だから、私は体が動く限りあなたたちと活動を共にする。」赤十字の活動はこのような現地スタッフの協力なくしては活動できません。ERUの活動は、赤十字のスタッフだけでなく、現地スタッフも含めてチームだと感じた瞬間でした。
派遣期間:2015年4月~6月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日ネパールでマグニチュード7.8の地震が発生、多くの死者・負傷者を出し、家屋の損壊により多くの人が家を失うなどの甚大な被害をもたらしました。 この地震被害に対応するため、日本赤十字社(日赤)では基礎保健ERU(緊急対応ユニット)を現地へ派遣しました。私は4月30日からの約6週間の期間、日赤ERU第1班で放射線技師・管理要員としてシンデュルパルチョール郡メラムチ村の診療所での地震被災者への医療支援活動を行いました。
メラムチ村はカトマンズからは車で3時間の山岳地帯に位置しており、この地域一帯の医療保健を担っているのが活動した診療所でした。今回の地震では家屋の崩壊などにより怪我をした人が多く、骨折の診断のため日本から持ち込んだX線撮影装置を使用しました。活動開始当初は近隣で活動している他国医療チームからの依頼によるレントゲンも含め、20-25件の撮影をしていました。医療へのアクセスの悪い現地では地震から2週間が経過してから初めてX線撮影をし、骨折がわかるという事例もありました。日本ではCTやMRIが日常的に撮れるという環境で仕事をしていますが、改めて基本であるX線撮影の重要性を感じました。
ERUは医療職だけでなく、管理要員、技術要員、こころのケアや地域保健担当など他職種で構成されており、ERU活動を支えるために日赤の本社職員や他国の赤十字のスタッフも活動をしています。そして言葉も文化も異なる場所では現地のスタッフが欠かせません。今回も通訳だけでなく多くの場面でネパール人のスタッフが活躍していました。活動中には資機材の不足や生活環境など困難もありましたが、全員が被災者を救いたいという目標をもって協力しあう時間からは学ぶことがとても多かったです。
派遣期間:2015年4月~6月
派遣先:ネパール連邦民主共和国シンデュルパルチョール郡メラムチ村
2015年4月25日、ネパールの首都カトマンズから北西80km付近を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生し、ネパール国内では壊滅的な被害を受けました。日本赤十字社(日赤)は発災当日から職員を派遣し、救援活動にあたりました。私は発災4日後に基礎保健ERU第1班の管理要員としてネパールへ派遣され、山間部のメラムチ村で約1ヶ月半活動しました。メラムチ村の診療所には、地震で怪我をした人など診療所の対応能力を超える多くの被災者が押し寄せていました。私たちERUチームはメラムチ村の診療所の支援をはじめ、周辺の村落への巡回診療やこころのケア活動などを行ないました。
私たちの活動には現地スタッフの協力が欠かせません。活動開始直後から医療支援活動に必要な通訳やボランティアなど現地スタッフを募集し、管理要員として現地スタッフのオリエンテーションやスケジュール調整などを行ないました。ERU資機材の運搬や展開にはメラムチ村の若者が協力してくれました。彼らが生き生きとたくましく活動する姿に、こちらが励まされる想いでした。
管理要員の活動は主に活動拠点や生活拠点の確立といった医療支援活動に必要なサポート業務です。到着直後から取り組むべき業務も多く、目の前の業務に追われていました。そのようななか、診療所の現地スタッフが発災当初から多くの傷病者を受け入れ、通常の診療時間を超えて24時間体制で診療を継続している現状を目の当たりにしました。「被災者を何とか救いたい」という現地スタッフの強い想いを肌で感じました。
国際医療救援課長 伊藤明子
赤十字国際委員会(ICRC)からの要請を受け、2008年2月21日からケニアの首都ナイロビで3ヶ月間活動しました。今回の暴動犠牲者救援では、ケニア赤十字社が中心となり、ICRCは国際赤十字のネットワークのもと、ケニア赤十字社を支援する形で活動を展開し、またケニア保健省から依頼により、再度暴動が起こった場合や多発する交通事故による多数の負傷者受け入れ等の緊急医療対応についてのワークショップ開催を担当することになりました。
ワークショップの参加者は、医師・看護師たちでしたが、彼らの言葉から、次々と運ばれてくる負傷者の数、一人でも多くの命を助けようと殺気立つ病院の雰囲気、そして彼ら自身の身にふりかかった恐怖等を感じました。そして、ワークショップを重ねるごとに、彼らが淡々として使う「Chaotic」という言葉は、深く重いものとなりました。暴動後に出会ったケニアの人々の姿は冷静で淡々として映っていましたが、彼らの体験した時間の流れを考えると、想像を絶するものであり、彼らの心の奥にある深い傷を感じずにはいられませんでした。
昨日までの隣人がお互いに傷つけあう、これは今回のケニア大統領選挙後の暴動だけではなく、世界のどこかで未だに起こっているのが現状です。赤十字の原則あるいは国際人道法の普及が国民に行われていなければ、赤十字の原則の実践は、時にはボランティア自身の安全確保も難しくしてしまいます。
しかし、このような状況の中で、ケニア赤十字社のボランティアの方々の活動は、まさに「赤十字の原則」の実践であった、と私は思います。
日本で、もしケニアと同じ状況が起きたらならば、みなさんはケニア赤十字社のボランティアの方たちのように、赤十字の原則を実践できるのでしょうか?もし自信がないのならば、私たちは何からはじめたらいいのでしょうか?
注:国際赤十字・赤新月運動とは、赤十字の理想と目的を共有する人々や集団(各国赤十字社・赤新月社、赤十字国際委員会・国際赤十字・赤新月社連盟の3つの機関)であり、これらの集団が赤十字の理想と目的を達成するために活動すること
看護師 花井美和
2007年12月末にケニアで大統領選挙が行われ、その結果に対する抗議を発端に部族間の争いが続きました。赤十字国際委員会(ICRC)は1月6日からケニアの病院に外科チーム:Field Surgical Team(FST)を派遣しました。FSTは外科医、麻酔科医、手術室看護師と病棟看護師の4人で構成されており、私は第2班FSTの手術室看護師として派遣の要請を受け、現地に2月21日に到着しました。
ケニア到着時、暴動は沈静化しつつありましたが、情勢が不安定であり、FSTの要請がいつあればすぐに出動できるようにナイロビで待機をしていました。最終的にFST出動の要請はありませんでしたが、ケニア保健省からICRCに、再度暴動が起こった場合や多発する交通事故による多数の負傷者の救急を含め、病院対応と救急医療の指導の依頼がありました。そこでケニア国内の各地域の医療従事者を対象に、大災害時における緊急医療対応についてのワークショップを開催しました。
ワークショップでは、ICRCの紹介、救急処置のABC、生理学的・解剖学的評価と対応、トリアージの基礎、大規模災害時における病院の受け入れ、ICRCの戦傷外科治療基準に基づいた外科処置・治療や麻酔の講義を行いました。また多数の負傷者が発生した場合を想定したトリアージの机上訓練も行いました。このワークショップを開催したことで、私自身も救急医療、災害救護についてさらに学ぶことができました。
暴動は沈静化したとはいえ、まだまだケニアには国内避難民といわれる人たちがたくさんいます。その方たちのもとに一刻も早く平和が訪れ、安心して暮らせる日がくることを願ってやみません。